111.「復讐という内容を中心として、歴史は続いていくのです」 | 御言 missing link

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 聖書のマラキ書には
「見よ。主の大いなる恐るべき日が来る前に、私は預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである。」(マラキ書 4/5)
 と書いてあります。
 原理講論には、このエリヤと洗礼ヨハネとの関係について次のように書かれています。

「ところが、イスラエルの民族は、つねに不信仰の道を歩むようになり、将来来られようとするイエスの前に、サタンが侵入し得る条件を成立させてきたので、このような条件を防いで新しい摂理をするために、預言者エリヤが来て、バアルの預言者とアシラの預言者とを合わせて、850名を滅ぼすなど(列王紀 18/19)、サタン分立の役割をして昇天したのを完遂するために、彼は再臨しなければならなかったのである(マラキ4/5)。このように、エリヤが果し得なかったサタン分立の使命を担ってこれを完遂し、メシアの道を直くするために(ヨハネ 1/23)、エリヤとして来た預言者が、洗礼ヨハネであった(マタイ 11/14、マタイ17/13)。」(P405)

 さらには、

「洗礼ヨハネは、完成したアダムとして来られたイエスに対しては、復帰されたアダム型の人物であった。ゆえに洗礼ヨハネは、その時までの摂理歴史上において、『信仰基台』と『実体基台』とを復帰するために来たすべての中心人物たちができなかった使命を、完全に成就して、『メシアのための基台』をつくらなければならなかったのである。そして、この基台の上で彼を信じ、彼に従うユダヤ民族を導いて、全体的な摂理の基台と共に、イエスに引き渡したのち、信仰と忠誠をもって彼に従い彼に侍るべきであった。」(原理講論 P409)

 とあります。
 次は、エリヤと洗礼ヨハネに関する文先生の御言です。

「この復帰摂理を見た時に、ヤコブ家庭も失敗したのです。レアとラケルが争って、10支派と2支派が生じました。なぜレアが妾たちを中心として息子を生んだのかといえば、ヤコブの祝福家庭を全部、自分が掌握しようとしたからです。ですからサタン側なのです。レアはラケルの夫となるべきヤコブを奪ったことを、この世的に見た時にも、申し訳ないと思わなければならないのに、その権を奪おうとしたのです。二人が一つになれなかったのは、リベカに責任があり、ラバンの妻に責任があるのです。ラバンの妻はサタン側ではなく、天側に立たなければならなかったのです。レアとラケルを教育しなければならなかったのです。もし、レアとラケルが一つになっていれば、この家庭を平和に収拾できたのです。しかし、母親、長女が責任を果たせなかったので、この家庭から分裂した戦いが始まり、それが民族的になりイスラエルの国の戦いとして北朝10支派と南朝2支派として分かれて戦い、悲運の歴史が展開されてきたのです。そこで、それを統合するためにエリヤが来たのですが、それもできなかったのです。エリヤは、国の分裂を統合するために、カイン・アベルを統合するために来たのです。これが民族の宿願なのです。神様はカイン・アベルを統合できなければ、そのみ旨を成就できないのです。家庭を立てることができないのです。神様はこのことを知っていても教えることができないので、エリヤにその業をさせようとしたのです。それで、南朝のエリヤを中心とした士師が皆、ユダヤの国からイスラエル北朝10支派に影響を与えたのです。バアル神やアシラの神々と、イスラエルの神とどちらが生きておられるのかを証しするために戦ったのです。水を注いだそこを火で燃やしてしまうのを見て、皆イスラエルの神を信じるものと思っていました。しかし、信じるどころか反対に『エリヤを捕らえて殺せ』と言われ、エリヤが命を取ってくださいと祈祷したという内容が聖書にあるのですね。その時、神様が『今なおバアル神に屈しなかった7000余の群れがいる』と語ったのです。これを誰が一つにすることができるというのでしょうか? 復讐という内容を中心として、歴史は続いていくのです。復讐という概念をいかに取り除くかということを教えてあげることのできない神様の心は、いかばかり苦しかったことでしょうか? イエス様が来られる時のユダヤ教とイスラエルの国の党派争いも、全く同じだったのです。洗礼ヨハネはエリヤの代わりに、7000余の群れを準備しなければならなかったのです。エリヤが 7000余の群れを率いて一つにならなければならなかった、そのことが分からずにいたのです。エリヤの目的は、イスラエルに7000余の群れをつくって、イエス様の基盤を築くためでした。そのように7000余の群れを整える環境を準備すべきでしたが、洗礼ヨハネはイエス様を裏切ったのです。 これに対する詳しい話は、今時間がなくてできません。このような恨みに満ちた歴史を経てきたのです。洗礼ヨハネが7000余の群れさえつくることができていたならば、イエス様は死ぬことはなかったのです。ですから、このようなことがキリスト教文化圏にも延長されているのです。世界が一つになるためには、7000余の群れが必要なのです。それで、私はアメリカで監獄に入りながらも、7000余の牧師たちを韓国に送って教育させたのです。この7000余を中心として、四万以上のすべてのアメリカの牧師たちを教育したのです。監獄の中から、そのような業をしてきたのです。このように、蕩減復帰の原則は避けて通れないのです。その時代にできないならば、次の時代においてでも、必ず成し遂げなければならないのです。このような業をすべて経て、今日、この位置まで来れたということを、皆さんはよく知らなければなりません。恨みの多い紆余曲折の歴史を経ながら、このような道を歩んできた天の事情を知らなければなりません。またご父母様の事情を知って、皆さんの家庭に今後、成長する息子娘の骨髄に植え付けてあげなければなりません。 (ファミリー94/3 P37~40 続・還国とサタン圏整備 1993年10月10 日 ソウル本部教会)

 文先生は、エリヤは、民族統合の使命を持っていたと語られています。レアとラケルのゆえに分裂してしまった12部族を統合して、イエス様の時代までに統一された国家として準備する使命を持っていたということになります。
 イスラエル国家は、ノアの箱舟、アブラハムの象徴献祭を実体化したものであり、ヤコブのハランで復帰した氏族の拡大と見ることができます。復帰摂理はすべて、真のアダムであるメシアを迎えるためにあるからです。
 本来、イスラエル国家が祭壇となり、その祭壇を司るレビ族の祭司長ザカリヤがイエス様(アダム)を迎えるための天使長家庭としてイエス様の基盤の中心になり、さらに、エリヤの使命を受け継いだ息子洗礼ヨハネが、イエス様のために7000名の群れを準備し、それをイエス様に引き渡すことが願われていたということになります。
 その洗礼ヨハネができなかったことをイエス様が自ら成そうとされたわけです。その意味で、そのときのイエス様の立場は、先例ヨハネであり、エリヤであり、エリヤが準備すべきであった7000余の基盤を自らつくらなければなりませんでした。それは、もはやイエス様ご自身のための基盤というよりも、イエス様の次の世代のための基盤と見る方がより自然ではないでしょうか。一度天使長の立場に立った人間が、その後基盤を復帰しさえすればもとのアダムに戻ることができるというのは、創造原理的疑問を感じざるをえません。
 イエス様は、最低限、氏族的な基盤の上で結婚し、次の世代を開かなければなりませんでした。そして、そこに誕生されたであろう息子が、本来、イエス様が成すべきであったメシアとしての使命を引き継ぐことになったはずなのですが、ユダヤ教の反対のもと、国家基盤のない状態では、さらにもう一代、世代を重ねて、民族ないしは国家の統合を目指す必要があったかもしれません。三代で完成するという原則の範囲で。
 また、その際、ザカリヤとヨセフ、マリヤとエリサベツの間にあった複雑な関係は、そのまま、次の世代にスライドしたかもしれない可能性は否定できないでしょう。血統転換は、どこかで一度行われれば永遠だなどという、観念的な理屈で納得できるほど、簡単ではないはずです。条件さえ立てればよいというのではなく、神様と人間の完成という妥協できない一線があります。復帰の途中経過においては減償法はありですが、創造理想の完成に関しては、「こんなもんで完成ということにしよう」などという妥協はありえません。
 原罪はないが、何十年信仰しても完成はできていない、いつ完成するかもわからない、などという人間も、本来はありえません。それを善の天使長と言うのではないでしょうか。
 文先生を中心とする摂理についても、例外はないと思います。
 上の御言の最後のところに、
「恨みの多い紆余曲折の歴史を経ながら、このような道を歩んできた天の事情を知らなければなりません。またご父母様の事情を知って、皆さんの家庭に今後、成長する息子娘の骨髄に植え付けてあげなければなりません。」
 とあります。
 このことを受け止めて、上の御言を読み返して頂けたらと思います。その中の次の内容は、ただ単に昔のことの説明をされただけと言えるでしょうか。

「母親、長女が責任を果たせなかったので、この家庭から分裂した戦いが始まり、それが民族的になりイスラエルの国の戦いとして北朝10支派と南朝2支派として分かれて戦い、悲運の歴史が展開されてきたのです。」
「それを統合するためにエリヤが来たのですが、それもできなかったのです。エリヤは、国の分裂を統合するために、カイン・アベルを統合するために来たのです。これが民族の宿願なのです。」
「神様はカイン・アベルを統合できなければ、そのみ旨を成就できないのです。家庭を立てることができないのです。神様はこのことを知っていても教えることができないので、エリヤにその業をさせようとしたのです。」
「復讐という内容を中心として、歴史は続いていくのです。復讐という概念をいかに取り除くかということを教えてあげることのできない神様の心は、いかばかり苦しかったことでしょうか?」
「イエス様が来られる時のユダヤ教とイスラエルの国の党派争いも、全く同じだったのです。」
「洗礼ヨハネはエリヤの代わりに、7000余の群れを準備しなければならなかったのです。」
「洗礼ヨハネが7000余の群れさえつくることができていたならば、イエス様は死ぬことはなかったのです。」
「世界が一つになるためには、7000余の群れが必要なのです。」


 そのあとにある説明から、つまり、文先生の牢獄生活と牧師の教育で、すべてに決着がついたととれないこともありませんが、果たしてそうなのでしょうか。
 いまだ国は見えず、統合も成しえず、分裂の溝が埋まることは難しいことのように見えるのですが‥‥‥。

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