58.「エバの宗教と天使長の宗教」 | 御言 missing link

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 これまで何度か御言を通して確認してきたことですが、天使長の家庭が存在しなければ、アダムは誕生することができませんでした。そこで、復帰摂理においては、まず地上に善の天使長が立てられ、天使長家庭が造られることが重要でした。この天使長は祭司長でもあり、彼は祭壇とその祭壇の上に捧げられる祭物を準備しなければなりませんでした。その祭壇とは、アダムを迎えるための環境と、天使長によって指導・教育された天使達を表します。そして、その版図を拡大したものが選民であり、宗教でした。

「アダムとエバが失敗したため、アダムとエバが完成しなければならないのです。神様が天国をつくってあげることはできません。神様が天国をつくってあげるとすれば、歴史時代の長い期間は必要ないのです。一瞬のうちにつくることができます。自分たちが過ったため、復帰するためには必ず蕩減路程を経なければならないのです。
 そのため、すべての歴史は、今まで祭壇という過程を経て分別してきたのです。ただ分別するのではありません。必ず祭物という過程を経なければならないのです。その祭物的祭壇が宗教です。どのような宗教でも、宗教を中心として文化を分立する役事をしたのです。」
(祝福 83号 P16 完全な家庭理想 1994年10月4日 漢南洞公館)

 この天使長家庭の最大の使命はアダムを保護し、養育することです。その使命を担うのが中心宗教です。イエス様の時はユダヤ教であり、再臨時においてはキリスト教でした。

「神様がアダムを造る前に天使を造ったので、今日の宗教は何かというと、天使世界圏を地上に造ったものです。それが宗教世界です。その宗教世界圏内で何をすべきなのでしょうか。アダムを造り出すということをしなければならないのです。それでは宗教の中で世界的中心は何でしょうか。それはユダヤ教です。このようになるのです。そのユダヤ教は何をする宗教でしょうか。新郎を紹介する宗教です。それがメシヤ思想であり、救い主思想です。
 神様がアダムとエバを創造するまでは、その伝統的思想を誰が受け継ぐかというと、天使長の立場にある方々が受け継ぐのです。そうしてアダムとエバが生活するための新しい風潮と伝統を誰が教えてやるべきかというと、神様が教える前に、僕である天使長が『主人の息子、娘はこのようにしなければならない』と教えてやらなければならないのです。主人の息子、娘が過ちを犯すのを制止して、正しく歩むように先頭に立って教えてやるのが、年上の僕の責任ではないでしょうか。
 堕落した人間を救うために、神様は宗教を立てました。その宗教とは何でしょうか。エバの宗教と、天使長の宗教を世界に造ったのです。エバと天使長ゆえに堕落したので、人類をエバと天使長の宗教をもって復帰するのです。その道を通じて復帰されるのです。宗教は天使長圏の宗教です。百個、千個あったとしてもすべて天使長圏に属します。多くの宗教がありますが、それを大きく分けると四大宗教です。その中心はキリスト教ですが、キリスト教の主たる思想は新婦の思想です。
 天使長宗教は根本が明確ではありません。神様が何か分からないのです。終末にどうなるか分からないのです。ただ外的な遂行概念だけを中心として指導してきたのです。それゆえ終末になると、ふろしきをまとめて主人の家に世話をしに行かざるを得ないという立場になるのです。明白な伝統がないからです。」
(真の神様 P176~178)

 文先生は、
「エバの宗教と、天使長の宗教を世界に造ったのです」
 と言われ、さらに、
「宗教は天使長圏の宗教です。百個、千個あったとしてもすべて天使長圏に属します。多くの宗教がありますが、それを大きく分けると四大宗教です。その中心はキリスト教ですが、キリスト教の主たる思想は新婦の思想です。」
 と言っておられます。つまり、四大宗教も天使長の宗教であり、その中心がキリスト教であって、キリスト教の思想が新婦の思想だと言っておられます。
「エバの宗教と、天使長の宗教を世界に造ったのです」
 というのは、中心宗教の中に、アダムを誕生させる天使長家庭を擁するものと、エバを創造する天使長家庭を擁するものがあるということだと理解することができます。アダムを誕生させ、そのアダムを保護・養育する使命をもつ天使長家庭と、そのアダムの相対を準備するエバの宗教が存在すると言っていいかもしれません。ただし、その二つの宗教・家庭が同じ宗教圏に属するものなのか、別のものなのかは定かではありません。

「それでは、キリスト教は、何をしなければならないのでしょうか? すべての人類がともに願う、来られるそのお方の前に新婦を準備し、そのお方が願われる環境をつくってさしあげなければなりません。このことを聖書では、『子羊の婚宴』と比喩したのです。」 (ファミリー02/6 P59 祝福家庭と理想世界 2002年4月27日 ワシントン)

 ところで、上の御言の最後の部分には、
「天使長宗教は根本が明確ではありません。神様が何か分からないのです。終末にどうなるか分からないのです。ただ外的な遂行概念だけを中心として指導してきたのです。それゆえ終末になると、ふろしきをまとめて主人の家に世話をしに行かざるを得ないという立場になるのです。明白な伝統がないからです。」
 とありますが、この中の
「ただ外的な遂行概念だけを中心として指導してきたのです」
 という部分は、家庭連合にも当てはまることです。その前の
「天使長宗教は根本が明確ではありません。神様が何か分からないのです。」
 ということも、私達に十分該当することのように思えます(よくわかっているつもりの人も多いですが)。
 そうなると、私達も
「ふろしきをまとめて主人の家に世話をしに行かざるを得ないという立場になる」
 のかもしれません。ただ、その主人とはいったい誰なのでしょう。

P.S.日ごろ感じていることから

 私は、
「訓読は大切でも、御言の研究については勝手な解釈が横行するだけで、研究の必要などまったくない。原理が基本だ。」
 という主張に辟易しています。
 個人の信仰に必要な内容と教義を同じ土俵で議論すべきではないと考えています。信仰あっての教義ではありますが、もう一つ、真理あっての教義でもあります。個人が信仰する上で必要とされるのは、すべての真理ではありません。信仰生活に必要でないからといって、ただちに教義研究など意味がないとはならないということです。宗教の歴史や宗教学的な内容を抜きにして話すと、土俵の違いから誤解のスパイラルになりそうなので、これ以上の言及はやめておきますが、軽々な教義研究不要論は一般のキリスト教等から「宗教的未開人」といったラベルを貼られることになるでしょう。
 2乗してマイナスになる数(虚数)は、現実世界には存在しませんが、高次方程式の中には、虚数を解とするものが無数にあります。過去の数学の歴史においては、そのような高次方程式に対して、「解はない」とそのつど片づける道を残してもよかったはずですが、数学者たちは、その実在しない虚数解にも学問的に存在を認めてきました。合理主義者は、そんな実在もしないものがいったい何の役に立つのかと批判したくなるところです。ところが、その虚数を認め、複素数という概念を創出したことで、そこで扱われたさまざまな論理が、やがて電気工学の基本的な理論に用いられるようになったわけです。
 このようなことが宗教の教義にも同様にあてはまるわけではないでしょうが、宗教学も一つの学問として成立しているわけですから、研究に無駄はないと思います。問題は研究そのものにあるのではなく、自分だけが正しいとして、客観的に見ることができなくなり、他の意見に聞く耳をもたず、しいては、議論して、そこから共通項を導き出そうという努力をしようとしない風土にあると言えるでしょう。教義研究不要論も、議論をシャットアウトしようとする点で、そのような風土の醸成に一役買っていると申し上げておきます。

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