24.「悪は自己自身のために他を支配し、善は他のために自己自身を犠牲にする」 | 御言 missing link

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 文先生が強調されてきた内容の一つに「自己中心」があります。この言葉に込められた文先生の思いと、私たちの受け止め方の間には、かなり開きがあるように感じています。私たちの受け止め方は、表面的であり、原理を知らない人々と大差ないように思います。今回は、この「自己中心」に関して考えてみたいと思います。
 では、御言です。

「堕落によって人間は、どのような病気になってしまったのでしょうか。堕落人間の病気とは『愛の病気』です。すなわちサタンを中心とした愛によって、サタンの虜となり、サタンの血統を受け継ぐことになってしまったことが、堕落人間の病気なのです。言い換えれば、堕落の結果すべての人間は、サタンの血統をもった、サタンの子として生まれるようになってしまったということです。
 では、この『愛の病気』は、どのようにして始まったのでしょうか。この病気の始まりは、そもそも自己中心の思いによってもたらされました。自己中心こそが堕落の動機となったのであります。自分を中心として考え、自分を中心として愛を求めようとしたことによって、堕落がもたらされたのです。
 自己中心の愛が堕落をもたらしたのですから、復帰するためには、神を中心とした愛、すなわち自己中心でない愛を求めなければなりません。エデンの園においてアダムとエバと天使長が、自己中心ではなく、神を中心として愛し合ったならば、堕落はあり得なかったことでしょう。この地上で自己中心でない愛、神を中心とした愛をもって、互いに愛の関係を築いた人々が最後に行くところが天国です。これが神のみ言たる原理の基本の基本であります。」
 (み旨と世界 P550 歴史的父母の日)

 中ほどに、
「自己中心こそが堕落の動機となったのであります」
「自己中心の愛が堕落をもたらしたのです」
 とあります。
 私たちは「自己中心」を、堕落の結果もつようになった堕落性の一つぐらいにしか考えてきませんでした。ところが、文先生は、この「自己中心」が堕落の動機であり、「自己中心」が堕落をもたらしたと言っておられます。
 別の御言です。

「アダムとエバの堕落以後、人間がかかった病気は何ですか。サタンを中心として愛の病にかかり、間違ったその愛の病によってサタンの血統を繁殖してきたのです。言い換えれば、サタンの血統を受け、サタンの直系の子女として生まれたことが病気だというのです。
 ところで、その愛の病はどのようにして出発したのでしょうか。自分だけを中心として、自分だけを考えるところから出発したというのです。神様が立てた秩序と天地の道理、環境などすべてを否定し、自分を中心として愛したところから堕落の病が生まれ出たというのです。それゆえに、この病を治そうとすれば、自分を否定して神様だけを絶対的に中心として生きなければならないのです。天使長やアダムとエバが神様を中心とした愛を願ったならば、堕落しないで理想世界を築いたことでしょう。」
 (祝福家庭と理想天国Ⅰ P773 祝福の意義と価値)

 ここにも、上で確認したことと同様の表現として
「自分だけを中心として、自分だけを考えるところから出発した」
「自分を中心として愛したところから堕落の病が生まれ出た」
 と語られています。
「自己中心」は堕落によって生じた性質ではなく、その前からあったものであり、それが堕落の出発点であったということです。私たちの一般的な認識では、この順序が逆ではないでしょうか。
 私たちは、このような観点から、改めて、罪や堕落性というものを本当に理解しているのかどうか、検討する必要があるように思います。
 最初の御言の最後の部分には、
「この地上で自己中心でない愛、神を中心とした愛をもって、互いに愛の関係を築いた人々が最後に行くところが天国です。」
 とあり、さらに
「これが神のみ言たる原理の基本の基本であります。」
 と言っておられます。私達がよく知っているところではありますが、具体的にどうすればよいのかとなると、難しいところです。
 そこが、文先生が、
「どのように個人完成するのかわからずにいるのです」(ファミリー 01年11月 P45)
 と言われたところなのかもしれません。
 そして、
 「この地上で自己中心でない愛、神を中心とした愛をもって、互いに愛の関係を築いた人々が最後に行くところが天国です」
 という「愛の関係」は、いまだどこにも現れていないのではないでしょうか?
 さらに、御言です。ちょっと長いですが。

「では、悪とは何でありましょうか? 悪とは、この世界への利己心の顕現であります。神の利他的な与える原理は、神ならぬ利己的な奪う原理へとゆがめられてしまったのです。仕えるよりも仕えられることを望む邪悪な立場が、その時から打ち立てられたのです。悪の根源はサタンであります。彼は神に仕えるべき立場におりました。しかし、彼は、もう一つの神のような態度をとり、人間を自分自身の利益のために従属させたのです。神は、この宇宙における絶対的なプラスの力であります。そして、サタンもまた、もう一つのプラスの力をとろうとするのです。二つのプラスは、互いに反発し合うものです。サタンは、堕落した天使長であり、神と人間に対する忠実な僕としての立場を離れて、神に挑戦し、神と競争したのです。彼の動機は利己心でありました。彼の利己心から悪と罪の源が出てきたのです。
 事の次第はこうでありました。つまり、エバはサタンの最初の犠牲となり、自分自身を利己的な存在へと変身させて、神の最初の娘としての位置から落ちてしまったのです。そして、エバとサタンは一緒になって、首尾よく、アダムを彼らの利己的な世界へ引き込むことに成功したのでした。この悲劇的出来事により、神は、エデンの園において、人間から孤立させられてしまったのです。かくして、人類歴史は、神のいない、悪なる立場から出発したのでありました。人間の悪なる歴史の土台は据えられ、サタンはこの世の支配者となったのです。利己心は、人類歴史の出発において存在するようになり、そして今や世界は、殺人と虚偽と盗みとに満ちているのです。罪悪世界におけるこれらすべての行為は、利己心から起こってくるのであります。悪は、自己自身の利益ために他を支配するものであり、善は、他の利益のために自己自身を犠牲にするものであります。」
 (み旨と世界 P266 人間に対する神の希望)

「堕落は、神様を中心としてアダムとエバが一つにならなければならないのに、神様の僕である天使長と一つになったことをいいます。神様の血統を受け継がなければならない人間が僕の血を受け継いだことです。ですから堕落した人間がいくら神様を「父」と呼んでも実感がわかないのです。これは神様であろうと何であろうと関係なく、すべてを自己中心にだけ連結させて考える堕落性本性が遺伝したからです。 (祝福家庭と理想天国Ⅰ P439 創造本然の男女の愛)

 やはり、ここにも、
「彼の利己心から悪と罪の源が出てきた」
 とあります。(ここでは「利己心」という言葉が使われていますが、「自己中心」と同義と考えています。)
 利己心が悪と罪の源だと言っておられるわけです。
 そして、その結果、
「神は、エデンの園において、人間から孤立させられてしまったのです」
「今や世界は、殺人と虚偽と盗みとに満ちているのです」
 とあります。そのようになった原因は
「すべてを自己中心にだけ連結させて考える堕落性本性が遺伝したからです」
 とのことです。
 したがって、ここまでで確認できる次の点、つまり
「自己中心こそが堕落の動機となった」
「自己中心の愛が堕落をもたらした」
「自分だけを中心として、自分だけを考えるところから出発した」
「自分を中心として愛したところから堕落の病が生まれ出た」
「利己心から悪と罪の源が出てきた」
「すべてを自己中心にだけ連結させて考える堕落性本性が遺伝」

 ということを、再度、文先生の視点を訪ねながら、検討する必要があると思います。「自己中心」は、単なる堕落性の一性質ではなく、「悪と罪の源」であるという点で、悪や罪以上のものであり、それが遺伝しているということです。そこを重視する必要があるのではないでしょうか。 
 「罪の根」といえば、私たちはそれを「原罪」として理解していますが、そのこととの関連も検討の余地があるといえます。
 神様のことを誰よりもよく知っておられ、誰よりも愛した文先生でしたから、その神様を孤立させた一番の原因が「自己中心」であり、そして、そこから「悪と罪の源が出てきた」ということであれば、文先生はこの「自己中心」に対して、私達の表面的な捉え方とは異なる、特別な意味を抱いておられたのかもしれません。
 そして、その反対側にある「為に生きる」という言葉にも‥‥‥。
 決して、神様抜きにして語ることのできないものとして‥‥‥。

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