5.神様はどのようなお方か(2) | 御言 missing link

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 先回、「神様がいかなるお方か」ということに関して、文先生の御言から、次の6つの点をあげました。

① 無形なる神様である
② 二性性相の中和的な主体である
③ 神様は人格的神である
④ 神様と人間は親子である
⑤ 全知全能でありありながら、原理原則の神様である
⑥ 神は愛をもって遍在される 

 そして、すでに①、②について説明しました。今回は③、④です。

③ 神様は人格的神である

 若いころ、原理講義をする際、創造原理の第一節で、難しいなと感じながら講義した部分があります。それは、
「神様が人格的神であるということ」、「神様と人間が親子であるということ」
の2つの説明です。原理講論通りに講義をすれば、どちらも理論的な説明で終わるだけです。果たして原理講論通りに講義をすることで、「人格神」ならびに「親子」ということを、初めて原理を聞く人に納得させることは可能なのでしょうか。私の場合は、いろいろ考えた末に、最後は、「この原理を説かれた先生が語られた内容です」と言いながら、文先生の御言を紹介したりしていました。その一つが、次の御言でした。昔、修練会で配布された「現代摂理史」の資料の中に掲載されていた御言ですので、よく知られている御言だと思います。特に赤色の部分の着目してください。

「神を考えるのに、まず自分というものを考える。自分はどこからきたか。お母さんから。お母さんは、お母さんのまたお母さんから‥‥‥。どこまでさかのぼるか? 人間の初めはどうなっているのか? 本当に神が造ったのか? あらゆる人種が住んでいるが、自分の位置はどういう系統に立っているのだろう。人間とはどういう関係になっているのだろう。それはみんな、うちあけて体験しなければならない問題なんだね。あらゆる、一から十までね。神と自分との関係を結ぶにはいかなる関係のもとに結ぶか。歴史的関係か、時代的関係か、未来の関係か、何の関係だろう? 人がこうであったというのに、神様との関係、その関係は何を中心とし、何をキーポイントにしているか。それが問題である。
 神を知り、自分の位置と価値がわかってくる。また関係をはっきり見定めておく。だから神がおれば、神自体は何か。神の希望は何か。神の希望は何だろう? 我々の生活みたいに神にも事情があるだろう。神の事情は何か。神が喜ぶ世界の心情は何を中心とするのか。神の目的、あらゆるものが問題になってくる。この希望やら心情、みんな総合して結論を下すと、“人間”ということになる。
 では、人間と神との関係は何でもってつながるのか? それには心情基準を通過していかなければならない。結局深いところに入って祈る。祈って聞いてみる。『宇宙の根本は何か!』、『親子だ』。父母と子供。最初の基準として、人間と神が親子の関係である、というんですね。天的心情、天的血統を中心とした親子関係が宇宙の根本である。
 それでは君たちを生んでくれた父母が自分の親であるように、本当に親なのか。いかなる論法でもってしても否定できないその心情圏にいかに入るか。その問題は心情でなければわからない。『神よ、お父様』、と叫べば、宇宙のすべてがそこに集まる。“父よ”、“お父様”、そういう言葉には一つの全体的な定義がある。あらゆるものの表象の中心語として感じてくるんだね。そういう見解にまで入らなければならない。
 それは自分の心に、いかなる思いがわいても、神が自分の親であるということを否定できない。そして神自身も自分に対して『そうだ』、という。そこに至って疑うことのできない親子の関係を結んでいく。
 だから宇宙の根本は親子である。万物は子供のための庭園である。そして、その神をはっきりわかれば、創造原理が自然と出てくる。『私の心と体はこういう関係になっているんだな。神を中心とする相対基準を造り、四位基台を保ちうるんだな。それを永続的に関係づけるために授受作用しなければならないんだな』。そのようにして神をはっきり知れば、その原理が自然と悟れる。」
(御言集 第1巻 P228)

 この御言も決して易しくはないのですが、それでも原理講義をした際、それを講論通りに説明して終わるよりも、少し心情的な世界が伝わったのではと思っています。

 次の御言は、「神様は人格的父・人格的神である」ということを説かれた内容です。

「神様はどのようなお方ですか? 知っていますか? 神様はどのようなお方なのですか?(「真の愛の神様です」)。真の愛ではなく、真の父であられる神様です。真の愛というのは、真の父である神様となられ、真の子女との関係が一つになる時、真の愛が成立するのです。ですから、最初は真の父です。
 ですから、人間とは何であり、人間と歴史との関係とは何であり、人間と神様との関係とは何であるのかということを知ったということです。神様は私たちの父ですが、どのような父ですか?
それは、『知・情・意を兼ね備えた、真・美・善の父である』ということです。
 人格的な神様であられるということを知らなければなりません。人格神です。人格的父です。人格神であると同時に人格的父です。そのようであられてこそ、人間と関係を結ばれることができるのです。
(ファミリー00年2月 P62 真のご父母様の摂理観的責任完遂 1999年12月26日 ベルベディア)

 ここで、文先生は、
「人格神であると同時に人格的父です」
「知・情・意を兼ね備えた、真・美・善の父である」

 と言われ、
「そのようであられてこそ、人間と関係を結ばれることができるのです」
 と言っておられます。神様が人間と関係を結ぶことを願っておられたということは重要視すべきことだと思います。
 さらに、文先生は、神様の人格的内容と人間の人格的内容は同じだと言っておられます。

「今日、多くのキリスト教信者たちは、神様は唯一無二のお方であり、絶対的な方であり、創造主であり、至高至善の位置にいらっしゃるので、被造人間すなわち被造物と創造主は関係をもつことができないと考えます。被造物は俗なるものであり、創造主は絶対的で神聖な方であると見ます。しかし愛の概念を中心として見る時、至高至善の神様であり、どんなに低俗な被造物だとしても愛の関係を結ぶためには人格的内容が同じでなければなりません。心情的内容が同じでなければなりません。人格を備えた人間と性稟が同じでなければならないのです。 (真の神様 P32)

 神様は、人間と愛の関係を結ぶために、人間の
 「人格的内容」、「心情的内容」、「性稟」
をご自身と同じものとして創られたと言っておられます。
 このような内容、つまり、神様が人間と愛の関係を結ぶことを願われたが故に、人間は神様と「人格的内容」、「心情的内容」、「性稟」が同じものとして創られているという内容は、大変なことを言っておられると思います。これまでは当たり前ぐらいにしか思ってきませんでしたが。神様の願いに通じた文先生だからこその御言だと思います。 
 私達人間にとって、神様との愛の関係を築きたいとする動機の成長と、それが可能なように “「人格的内容」、「心情的内容」、「性稟」が神様と同じものとして創られているという理解 ”
 はとても大切だということになるでしょう。

 では、次の④に移ります。

④ 神様と人間は親子である

 4つ目は、「神様と人間は親子である」という御言です。すでに、上の最初の御言の中にも「人格神であると同時に人格的父です」とありました。

宇宙の根本は父子の関係だというのです。そこで単純に考える人は、『父と子のいる関係が宇宙の根本なのだ』と思うでしょう。どうですか? 父母と息子といれば、それが宇宙の根本になるのでしょうか。父子の関係というのは、父母の関係でもなく、子女の関係でもありません。父子の関係というのは、永遠に切り離そうとしても切り離すことのできない、絶対的に一つになった関係をいうのです。それには何が必要かというと、真の愛なのです。 (祝福70号 P19~20 神のみ旨を中心とする宗教圏の統一 1988年10月14日 ソウル本部教会)

「神様と人間は親子の関係」というのは私達が良く知っていることですが、さらに、宇宙の根本は「父子の関係」だと言っておられます。ただし、
「単純に考える人は、『父と子のいる関係が宇宙の根本なのだ』と思うでしょう。どうですか? 父母と息子といれば、それが宇宙の根本になるのでしょうか。」
 と言っておられますから、単に父と子がいればそれでいいというわけではないようです。文先生の説く「父子の関係」とは、
「父子の関係というのは、永遠に切り離そうとしても切り離すことのできない、絶対的に一つになった関係をいうのです」
 とのことです。このような神様との関係を築いた「息子」とは、原理講論の言葉を借りれば、「創造理想を完成した男性」ということになるでしょう。そして
「それには何が必要かというと、真の愛なのです」
 と結んでおられます。文先生の真の愛の定義に関しては、後に取り上げますが、この真の愛なしに、父子関係は存在し得ないということですから、ここは重要なところです。
 では、さらに親子関係についての御言です。

「親子関係であり、そこには愛が鍵となっているということです。先生が祈って得た結論がこれなのです。これが大いなる宇宙の秘密なのです。」 (ファミリー88/7 P53 種となる幸福 1988年3月1日 ソウル本部教会)

「神様と人間が父子の関係だと言いましたが、父子の関係がもつ特定内容とは何でしょうか。父と息子が出会うことができる最高の場は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です。そのようになれば愛と生命と理想は一つの場所にあります。その場所に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想です。それを決定することができる最初の因縁が、父子の関係です。(真の神様 P43)

「神様は二性性相の中和体であると同時に、格としては男性格をもっています。神様の父格の愛に対し、相対的立場にあるのが男性であるがゆえ、これは垂直関係です。垂直関係。女性は垂直関係ではありません。女性は何でしょうか。垂直の相対となる横的関係なのです。神様の人格を中心として格に従って見るとき、男性は縦的関係である上下関係であり、女性は左右関係である横的関係です。それでは縦が先でしょうか、横が先でしょうか。縦が先なので先の位置に近づこうとするのが、すべての自然の道理が追求して求める道なのです。それゆえ神様の愛を中心とすると、娘よりも息子なのです。こうしてこそすべて整理されるのです。」  (真の神様 P29)

 ここで、文先生は、
「父と息子が出会うことができる最高の場は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です」
 と言われ、
「神様の人格を中心として格に従って見るとき、男性は縦的関係である上下関係であり、女性は左右関係である横的関係です」
 と言っておられます。
 概念としては理解できても、実感をともなうものとして理解するのはなかなか難しい御言です。ですが、文先生が「愛」について語られるとき、「愛が交差」「縦的関係と横的関係」は、よく使われる言葉です。先回も、少しこの件に触れましたが、その内容は、この言葉だけを取り上げて、1~2回の記事で掘り下げられるものではありませんし、私自身がそれをはっきりと理解・把握できているのかといえばまだまだです。
 これを「キーワード」として心に留めながら、少しずつでもより核心に近づいていけたらと思っています。

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