御言です。
「神様がなぜ人間を創造されたのかといえば、1人でいれば刺激がないからです。喜びとは相対関係によってわきいずるものです。1人では喜びの刺激を得ることができません。神様の相対的位置に立って初めて最高の愛を得ることができるのです。そのようになれば、神様の性相がそのまま実体化されます。神様が悲しくなれば人間も悲しくならざるをえません。ですから人間と神様の関係は離そうとしても離すことのできない不可分の関係です。どんなに研究してみても、ここに到達するようになるのです。」 (真の神様 P42)
ここでは、
「神様がなぜ人間を創造されたのかといえば、1人でいれば刺激がないからです」
「1人では喜びの刺激を得ることができません」
と言っておられます。
神様は、「刺激」を求めて人間を創造されたということになります。表面的な言い方になってしまいますが。
「神様自身も相対が必要なのです。神様も愛を一人ではなせません。私が人もいないのに一人で立って、『ああ、きょうは本当にいいな』と、このように熱烈に語るならば、気が狂ったと言われるのではないですか。しかし相手がいて熱心に語ったなら、それが筋道に合い環境与件にかなうようになっているでしょう。どんなに全知全能なる神様でも、一人で『うれしい、うれしい、ああ、私の愛がいい!』と踊りを踊れば、それは何ですか。それを知らなければなりません。神様も愛をなすためには一人では駄目です。相対を立てておかなければ刺激的な愛を感じることができません。これが、問題です。」 (真の神様 P69)
ここでは、
「神様も愛をなすためには一人では駄目です。相対を立てておかなければ刺激的な愛を感じることができません。これが、問題です。」
と言っておられます。
「刺激的な愛」という言葉を使っておられます。
「神も創造当時には、内的愛の喜びに酔っておられたのです。しかし、それでは一つの垂直的位置にしかなれません。神は中心であるために移動することができません。一ヶ所におられるためにどれほど重苦しいでしょうか。一ヶ所で嬉しがるのは良くないので、東西南北の四方に伸ばしながら喜ぶことのできる道を探そうとして、展開し始めたのが人間創造だったというのです。垂直は一つなのです。垂直の位置に二人がいることはできません。一つの位置を守るべき神であるために、そのお方がこういう愛を全部自分のためだけに喜びながら、長い間いることができないというのです。これを東西南北に拡げ、広い、変化する環境的条件の中で自らの主体性を維持しつつ、相対の変化による多角的な甘美な愛の強度と刺激を探し求めて宇宙を創造し始めたのです。これが神の創造の動機であります。これは文総裁が作った話ではありません。」 (祝福63号 P38~39 世界統一開天国の関鍵とは何か 1989年10月3日 リトルエンジェルス)
「甘美な愛の強度と刺激」 ― いいですね。ちょっと熔けそうです。決して人間的レベルでとらえてはいけないでしょうが。ですが、
「これが神の創造の動機」
だと言っておられます。
他にも、「刺激」という言葉を、文先生の御言に中に探してみたいと思います。
「神様の最後の創造目的は体をもつことです。実体世界を主管するためには無形の神様では駄目なので万民の父母として体をもって現れなければならないのです。感覚器官をもって刺激を感じることができる主体と対象として立つためには、体を着なければなりません。」 (真の神様 P24)
「刺激を感じる」ためには「体を着なければなりません」と言っておられます。
神様は、「感覚器官をもって刺激を感じること」を望んでおられたようです。
「神様はアダム、エバをなぜ造ったのでしょうか。無形の神をもってしては実体世界を主管できないからです。無形の神をもってしては、見えない神をもってしては、この見える世界、創造物、宇宙世界を支配することができないのです。ですから神様は、愛を中心として体を着なければならないのです。それで創造をしたのです。愛を中心として体を着れば、内外共に刺激が起こるのです。」 (真の神様 P30)
「愛を中心として体を着れば、内外共に刺激が起こる」
と言っておられます。
以上の御言から伺える神様の創造の動機、特に人間創造の動機について、それを表現するのに、なかなか的確な説明のし方が見つかりません。そこで、神様には大変申し訳ないのですが、私の低俗なレベルで極論します。あくまでも極論とご理解下さい。
「内的な愛の刺激だけでは物足りないので、より実体化された世界が必要だった。その世界において、体を着て、その刺激を感覚器官でもって内外ともにガンガン体感したかった。」
失礼しました。
この「愛の刺激」は、相対を立てて「愛」のやり取りをする結果生ずるわけですが、さらにそれは、人間が神様と同等な価値をもつものとして創られ、完成することによって、神様にとっても最高のものとなり得たはずです。
「全力投球で愛のキャッチボールがしたかった。
そのためには、人間にも、愛に関して、同じレベルの実力をつけて欲しかった。」
なんて例えは、やはり低俗でしょうか?
「神様は完全に投入して愛の対象を創造しました。そのようにしたのは神様も愛の対象が必要だったからです。ところが愛は一人ではできません。どんなに絶対者であっても、その絶対者の前に愛の対象がいてこそ愛することができるので、その愛の対象として人間を造りました。それで人間を造るとき、いい加減に造ったのではありません。聖書にみ言で造ったとありますが、いい加減ではありませんでした。干辛万苦を経て、自分の120パーセント、何百倍を役人して造ったのです。」 (真の神様 P48)
「神様が私たちの父ならば息子、娘を造るのに、いい加減に造り、駄目なものを造りたくなかったのは間違いないことです。神様は人間を全知全能なる神様のような同等の位置、同位の立場に立つことができるように造られたので、私たちの良心は最高のものを希望するのです。」(真の神様 P44)
よくわかっているつもりでも、改めて読んでみると、
「神様は人間を全知全能なる神様のような同等の位置、同位の立場に立つことができるように造られた」
というのは、すごいことだと思います。
「愛」のやり取りを最高のものとするためには、対象である人間も、神様と
「同等の位置、同位の立場に立つこと」
が絶対必要だったようです。
「干辛万苦を経て、自分の120パーセント、何百倍を役人して造った人間」
が完成したあかつきには、神様は、人間とともに
「『うれしい、うれしい、ああ、私の愛がいい!』と踊りを踊る」
ことができたのでしょう。
「愛」のやり取り、そこから生ずる「刺激」、そして「喜び」-
「いいなあ‥‥‥」と思わず心の中でひとりつぶやきたくなったのですが、‥‥‥
そんな神様の喜びは一体どこに‥‥‥
しかも、ずっと‥‥‥
文先生だけが神様のすべてを‥‥‥
「ただ悲しい神の友になりたかった」 (御旨と世界 P611)
「あなた達の何人が神様の孤独な心を慰めようと努力したことがあるのだろう?」 (2011年9月14日韓国チョンシンユースセンターでの訓読会)
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