◇ 凹んで帰ってきた礼拝 | 御言 missing link

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 1月11日(日)(2014年)に、久しぶりに礼拝に行ってきました。ビデオによる徳野会長のメッセージと教区長の説教でした。
 お二人の話を通して、今教会が重要視していることの中に次の2つのことがあるのを感じました。あくまでも今の私の視点からですが。

① 教会は「真のお母様と一体となった組織づくり・組織固め」を生命視している。

 これはある意味当然だと思います。どんなことであれ、一体化するところに運勢がくるというのは、教会の中だけに限られた原則ではないからです。

② 真のお母様との一体化を妨げる考え方・見方を徹底的に排除する。特に反対派、分派の主張は断固これを寄せ付けない。

 問題は②だと思います。自分たちの純粋性を保つためには邪魔なものは徹底的に排除しようとしているようです。
 教区長の説教から感じたのは、いま教会が腐心していることの一つは、分派に対する免疫教育であり、むしろ、反対派・分派をやり玉にあげることにより、組織内にくすぶる真のお母様とリーダーに対する不信を一掃しようとしているということです。特に真のお母様との一体化を妨げる言動は、摂理を壊すサタンの仕業であると位置づけています。たとえ、御言をもって批判してもだめです。その御言が何を言っているのかという議論を受け付けることなく、「サタンは巧妙で、都合のいい御言を利用して攻めてくる」と言われてしまいます。御言でさえ、批判のために使うと、サタンの仕業とされてしまうわけです。そして、それを聞いている食口はというと、多くの人がうなづいていました。完全に刷り込みに成功しているようです。
 また、教区長は、
「大母様は2014年は簡単には行かない年だと言っておられましたが、そのごとくいろいろな問題がありました。」
 と言い、いくつかの事例をあげていましたが、その中に神山先生の話もありました。ただし、詳しいことはほとんど語りませんでした。こういう話が当然のごとく語られ、聞いている食口は全く疑問に思わず、ほとんどの人が当然だと受け止めているようでした。
 かつて、キリスト教から異端・分派と見なされ、さんざん悲しい思い、辛い思いをしてきた統一教会だったはずです。いま、それとまったく同じことを、異論・異説を説く人々に対して行っているわけです。ましてや、内部の一体化のために他の批判を利用しているとしたら、それは非常に残念なことです。
「説教の内容に違和感を感じているのは私だけか? どうせなら私にもしっかりと刷り込んでほしかった。今や、私は粛清されるべき対象か‥‥‥。」
 と思いまながら、話を聞いていました。
 今回、徳野会長は、
「真の御父母様と一つになることが重要である」
 と強調していました。また。
「真のお母様は真のお父様と完全に一体であり、お父様とお母様を分けて考えるのは完全に間違った見方である」
 とも言っておられました。
 教区長は、もっとはっきりと言っていました。
「勝利するためにはお母様と一つになる以外にはない。分派や反対派のいうことに惑わされず、お母様のみ言葉だけに耳を傾け、お母様の御言だけを信じるようにしなければならない。」
 これだけだと、一見「この話のどこが問題なんだ?」と言う人もいるでしょうが、礼拝に出ても御言との矛盾が埋まらない私は、どうしようもない脱力感と失望感を感じ、最後の全体祈祷では祈る言葉がありませんでした。
「天のお父様‥‥‥」と言ったまま無言でいると、ふと、ある思いが、ボカンと湧いてきました。それは
「これはこれで、神様が進めたい摂理がある」
というものでした。
 かつて、神様は、キリスト教基盤の拡大を図る上で、必ずしもイエス様の教えを忠実に表現しているとはいえないパウロの考え方(あくまでも原理観から見ての見解です)の上に立つ信仰と神学を用いました。
 同様に、今の統一教会が、文先生の御言を忠実に表現したものでなくても、神様は、それを用いることができるのかもしれません。また、そうする以外に、文先生亡き後、摂理を守るすべがないのかもしれません。
 そのかわり、御言に対する純粋性は、別のところに残さざるをえなくなったのでしょうか。
「神様は、文先生がご聖和された後の教会を、文先生がおられた時と同じように用いることが難しいのかもしれない。
 神様は、文先生が築いた摂理(そのうちの主に外的なもの)を守るために、真のお母様を中心とする組織の一体化を図ることを許され、一方、御言に対する純粋性は、その外にもっていかざるをえず(中にいないので)、それを求める人たちに託されたのだろうか。
 文先生のご聖和により、教会にすべてを負わせることが難しくなり、そのため、いったんそのような分立的な摂理時代に移行せざるをえなくなってしまったのだろうか。
 自分で考えようとする食口がもっと増えた方がいいと思うが、そう簡単に、統一教会を切り捨てることのできない神様の事情がまだ残っているのかもしれない。それが猶予期間というのでなければいいけれど。‥‥‥」
 そう思いながら帰ってきました。

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