66.「本当は、未来の実体の神様の現れを目標としてアダムを造った」 | 御言 missing link

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 私の記事の中には、
「中心家庭――直系を受け継ぐ一中心」
 という御言の一語がよく出てきます。そのため、
「何でこの一語にこれほどこだわるのだろう」
 とうっとうしく思われる方も多いのではないかと思います。途中から記事を読み始められた方は、特にそう感じられるのではないでしょうか。
 今回は、これまでの記事と多少重複する部分があるのですが、今後の記事の展開上、重要ですので、再度このことについて確認させて頂きます。
 アダムを創造された神様の目的に関して、次ような御言があります。

「本当は、未来の実体の神様の現れを目標としてアダムを造った。だからアダムは実体をもった神様である。この世界を造った、創造したすべての、その主管というものは、完全に知らなければできない。完全主管をなすには、その創造したる神以外に完全主管はできない。完全に知らないというと完全主管はできないから、完全に知っている神以外にない。だから神以外は完全主管はできない。アダムは被造物である。被造物自体が創造の全般をつかさどって、それを完全主管するということは不可能である。だから、そのようなアダムを前に立たせて、そのアダムの中に神直接臨在して、アダムという肉体を、神の共鳴体と同じような立場に立たせて、神直接この大宇宙を主管しようとした。 (祝福家庭と理想天国Ⅱ 血統的転換 P64 1970年10月13日)

 最初のところに、
「アダムは実体をもった神様である」
 とあります。すでに基元節を過ぎ、あとは、文先生の御言を今さらほじくりかえすより、真のお母様を、真のお父様と一体となられた方としてして信じることの方が大切である、といった主張を目にしたり、耳にしたりすることがあります。ですが、信じることによって、上の御言にあるような「完成アダム」になった、あるいはなれそうだという人が、どこかにいるのでしょうか。いないと思います。
 最後の、赤で強調した部分の「アダム」「私」に置き換えてみます。

「だから、そのようなを前に立たせて、そのの中に神直接臨在して、という肉体を、神の共鳴体と同じような立場に立たせて、神直接この大宇宙を主管しようとした。」

 これを自分のこととして、日々実感をもって過ごすことができている人はいないのではないでしょうか。
「基元節」宣布の際の祝福が「完成期の祝福」と言われましたが、その祝福は上のようなレベルでもよかったのでしょうか? この祝福さえ、条件的であると言わざるを得ない現実があると思います。
 上の御言の中の 
「アダムを前に立たせて、そのアダムの中に神直接臨在して、アダムという肉体を、神の共鳴体と同じような立場に立たせて、神直接この大宇宙を主管しようとした」
 ということが実現されるためには、「完成アダム」は絶対に必要です。
 それは、私たちが、たとえ外的に氏族メシアを勝利したとしても、それだけでは決して叶えることのできない神様の願いです。
「神様はいつもとなりにいらっしゃりたい」わけではなく、「アダムの中に直接臨済されたい」のです。そのポイントを無視すれば、完成アダムは文先生ただお一人、あとは私たちが時間がかかったとしても、少しずつ完成していけばいい、3代、7代をかけて、となるでしょう。
 私は、文先生がそんな呑気に構えておられたとは思いません。文先生は、ご自身のあとに続く「神様の共鳴体」を、とぎらせることなくこの地上に継続させたいと願っておられたはずだと思っています。
 誰よりも神様を愛された文先生であれば、神様のこの願いを、何としても実現したと思われたでしょうし、そのような「完成アダムの」継続がなければ、ほかのどんな偉大なことを成したとしても、神様への真の孝行にはならないと思っておられたといえるほど、重要なことだったのではないでしょうか。この神様の人間創造の目的を普遍的に実現・成就することが。
 私の、
「中心家庭――直系を受け継ぐ一中心」
 へのこだわりはここにあります。
 完成アダムの継続です。それは、地上への神様臨在の継続です。

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