51.「統一教会の悪の根を引きぬくため別の世界をつくるのです」 | 御言 missing link

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「統一教会」の「統一」という言葉は、私達の意識にいくつかの共通の概念をもたらしていると思います。その一つに、
「統一は正しい方向、分裂は間違った方向」
というものがあると思います。
「世界基督教統一神霊協会」の意味は、
「世界のキリスト教を神様の霊を中心に統一する協会」という意味だと聞いたことがあります。そのような御言もあったかと思います。
 ですが、創立当初の、文先生の中にあったのは、
「世界を統一する」という大きな理想、決意はもちろんですが、それとは別に、
「どんなに小さな協会であっても、この協会を、失った世界のキリスト教の統一体とみなして、すべてのキリスト教の使命・蕩減を、何としてでも引き受けさせてください」
 という切実な祈りだったのではないかと思うことがあります。
「分裂」は決して文先生の本意ではないはずですが、「分裂=間違った方向」というのも、「統一」という言葉の表面しか捉えようとしていないようにも思います。

「今度、故郷に帰ってみたら、みな泥棒みたいになっています。これから、きれいに整理するつもりです。文総裁は愚かな人間ではありません。サタン世界の根を引き抜いた人間ですから、統一教会の悪の根を引き抜いてしまうのは、そう大変なことではありません。ですから、別の世界をつくるのです。 (ファミリー95/2 81p 真の父母様の勝利圏を相続しよう 1995年 1月1日 ソウル本部教会)

「統一教会の悪の根を引き抜いてしまうのは、そう大変なことではありません。ですから、別の世界をつくるのです。」
と言っておられます。これが、脅しやジョークでなければ、この御言を語られた1995年前後には、文先生は「別の世界」をつくることに、何らかの形で着手されたと思われます。この「別の世界」とは、素直にとらえれば「統一教会とは別の」ということになるはずです。そして、それは「統一教会の悪の根を引き抜く」ための別の世界だということになります。
 そういう摂理の動きの中で、ある意味、副作用的に生じたのが『分派』といわれる存在なのかもしれません。
 それは、ちょうどカソリックが腐敗していく中で、新しいプロテスタントの運動が起こり、たくさんの教派に分かれていったのと同じように。
 当時、カトリックから非難され、あるいは破門された人々の中で、その後、歴史的に評価されるようになった人々は少なくありません。
「文先生が作ろうとされたのは、あくまでも、『氏族メシア』、『訓読家庭教会』であって、『分派』ではないと、言われるかもしれませんが、だれも好き好んで、最初から「分派登場!」といってデビューしたわけではないと思います。本人達が、自ら『分派』という看板をかかげたわけではなく、分派というカテゴリーをつくったのは、むしろ正統だと主張する側ではないでしょうか。
 分派が正しいとか、間違っているとか言う前に、まず、摂理的な歴史との重なりの中で何か意味があるものと見る必要があるように思います。
 分派など、あってはならないものと片付けることは簡単です。カトリックから見れば、宗教改革やプロテスタントの派生は、当初あってはならないことでした。ですが、私達は、この動きは神様の摂理だったと認識しているはずです。プロテスタントは神様が作ったが、統一教会の分派は、すべてサタンが作った、と一刀両断することが正しいのでしょうか。文先生が、地上の神様の立場で、上のカソリックとプロテスタントと同様、歴史の再現、蕩減の必要性から『分派』を発生せしめた、という見方は、絶対に間違っているとは言えないと思います。すべての分派について言っているつもりではありませんが。このあたりは、統一教会が最終宗教だと信じている人にはありえない議論なのかもしれません。ですが、先回確認させて頂いたように、統一教会そのものは、宗教として最終かどうかは別として、少なくともその形態は最終型ではないというのが、御言から理解できることでした。
 いずれ、歴史が証明することになるはずです。軽々に批判していると、いつのまにか、摂理の内側にいたはずが、内側と外側が入れ替わっていたなんてことがあるかもしれません。そのとき、「唖然!」とすることにならないようにしたいものです。
 私は、家庭連合の本体以上に、訓読を生命視し、その真意を尋ねようとしてる『分派』があることを知っています。それらに注目し、動向を見守っています。ただ、どこなのかを申し上げるつもりはありません。関心のある方は、私と同じ観点、つまり「御言を重視し、訓読会を生命視している」という点に着目して頂ければわかることと思います。
「火の審判=御言の審判」でした。「悪の根を引き抜く」のは、やはり「御言によって」ということになるのではないでしょうか。

「二百冊以上ある先生の説教集を学ばないと統一教会全般の内容が分からない。どうせ、死ぬ時までにはそれは読まなければならない。死ぬ前に呼んで行かないと、自分達の先祖達が、『この野郎、何をしてきたのか』と言って讒訴する。」 (祝福74号 108p 完成と解放(前篇) 1992年 4月10日 ソウルオリンピックスタジアム)

「わたしは63年も説教して来ているが、誰も私の語る言葉を理解することができない。」 (2011年9月14日韓国チョンシンユースセンターでの訓読会)

 御言を取り組んでからにしませんか。『分派』等への批判は。特に、本部の方々におかれましては、「組織神学」という作業を終えてからにしませんか。「終えてから」が難しければ、せめて、正式に、本格的にスタートさせてからにしませんか。
私は分派の擁護をしたいわけではありません。その前にやるべきことが残っているということを主張したいだけです。

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