「先生の人生は涙の王であり、苦痛の王であり、十字架の王であり、愛において絶望の王です。そのような道を歩んできました。皆さんがあの世に行って、先生がそのように生きてきたということを知るようになる時、自分を中心として生活した者は、先生の前にどのようにして立ちますか?
このような話は深刻な話です。どこかに行ってよい食べ物、よい果物を見れば、アダムの手を通して喜びの中で受け、それらを召し上がることができず、神様に何千年待たせたかという事実を考えると、涙が溢れます。
涙なくしては、この統一教会を過ごすことができません。痛哭なくしては、過ごすことができないことを知らなければなりません。」 (ファミリー 98年8月 P20 真のご父母様 聖婚記念日のみ言)
「そのように、思いのままに朝食を食べ、昼食を食べ、夕食を食べ、好きなように歩き回りながら、“私ができることをやろう” と、活気に満ちた解放の王子ではないということを知っているので、今まで悲しみと苦痛の道を行き暗闇の道を光明の道に代置する道を教えようと、どれほど苦労したでしょうか? 」 (ファミリー 04年2月 P18)
注目していただきたいのは次の部分です。
「先生の人生は涙の王であり、苦痛の王であり、十字架の王であり、愛において絶望の王です。そのような道を歩んできました。」
「活気に満ちた解放の王子ではないということを知っているので、今まで悲しみと苦痛の道を行き‥‥‥」
文先生は、「解放の王子」としてではなく、「悲しみと苦痛の道」を行かれたとあります。
では、次の御言です。理由について言及されておられる部分があります。
「第2次世界大戦後、1945年までに、神様を中心とした霊的選民圏世界を中心として、キリスト教文化圏はこの地上で初めて、天を代表することのできる霊的基盤となったのです。‥‥
そのときに、もしキリスト教文化圏が先生を受け入れていたならば、そのときから7年間ですべての問題を解決することのできる地上基盤が完結されていたのです。その問題の解決点は何かというと、すべての家庭が、“アダム家庭を完成した真の父母の資格”をもつことができるようになる、ということです。
そのようにして世界人類が一つの家庭をなし、その家庭がすべて祝福を受けることによって、今日、私たちが行っていることと同じようなことが成し遂げられていたはずでした。そうして今現在、4億以上の祝福を済ませたのです。
その当時のキリスト教文化圏の人口は約8億でしたが、その8億という人口が皆、祝福を受けて旧教と新教が一つになれば、その当時7年以内にこの世界は、今日私たちが望んでいた、長子権世界化、父母権世界化、王権世界化がなされた家庭とともに一体理想を成していたことでしょう。そのように、一時にすべてのことを引っ繰り返して地上天上天国を成そうとしていた神様の摂理が、このように延長されてきたのです。
このような復帰摂理の御旨を成し遂げようとしたのですが、キリスト教が反対することによって、すべてのものが崩れてしまいました。それが崩れたということは、アダム家庭が堕落したことよりも、イエス様がイスラエル民族に反対されて十字架で亡くなられたことよりも、もっと無念で悔しく悲しいことでした。
先生は地上において、天は霊界において、縦的父母と横的父母が地上に一体圏をなし、イエス様の肉体と霊が分かれてしまったことを、この地上において宗教圏、イスラエル圏、第2イスラエル圏であるキリスト教文化圏を中心として、霊肉の統一を中心として家庭的出発を世界化させることのできる7年路程を整えようとしたのです。ところが、それができなかったことによって、再び荒野40年路程を経ていかなければなりませんでした。
4000年歴史を蕩減するための生涯を中心として、一代において40年期間という最短期間を中心として、蕩減すべき道を再び出発しなければならないその立場は、あまりにも悲しい立場であるということを、この地上の誰も知らないのです。
韓国は「開放された」と万歳を叫び、すべての民族は「第2次大戦に自由世界が勝利した」と褒めたたえることのできる環境でしたが、縦的な父母である神様と横的な父母である真の御父母様は喜びではなく、悲しみの行路を中心として、歓喜する環境から追放され、反対される道である家庭的荒野40年路程を行ったのです。」 (ファミリー99 2月 P13 「真の祝福天宙化とサタンの血統根絶」)
中ほどに、
「キリスト教が反対することによって、すべてのものが崩れてしまいました」
「アダム家庭が堕落したことよりも、イエス様がイスラエル民族に反対されて十字架で亡くなられたことよりも、もっと無念で悔しく悲しいことでした。」
とあります。この
「イエス様が十字架で亡くなられたことよりも、もっと無念で悔しく悲しいこと」
という部分が気になります。
「再び荒野40年路程を経ていかなければなりませんでした」
とありますから、文先生のご苦労は、
「イエス様が十字架で亡くなられたことよりも、もっと無念で悔しく悲しいこと」
だったと理解すればよいのでしょうが、実際はさらに深刻だったのではないかと考えています。
アダムが堕落したことにより失ったもの、イエス様の十字架によって失ったものが
「無念で悔しく悲しいこと」
であると理解できると思います。そうすると、それよりも
「もっと無念で悔しく悲しいこと」
となると、文先生降臨の目的から見た場合、キリスト教が反対することによって失われたものは、もっと大きかったということになります。
それ故、
「あまりにも悲しい立場であるということを、この地上の誰も知らないのです」
「家庭的荒野40年路程を行ったのです」
という言葉には、私達が、イエス様の十字架から推測される以上の重さがあるはずです。
できることなら、その重さをもう少したずねていきたいと思います。
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