「だから今、統一教会がそこまで完成して、勝利した基準があるから教えるのです。それを教えなければ、あなたたちより何百倍、何千倍知恵深いサタンが持っていってしまうのです。そうなった場合には、神の復帰の道は完全に閉ざされてしまいます。
子供の成すべきことをサタンがすぐに持っていって成した場合には、また、神の二重の苦しみが生じてくるのです。だから、それは暗示や比喩をもってなす。表示や合図で持って教えるのです。それは真理を愛する子女関係を結べば分かるのです。」(祝福 66 P172 777双聖酒式後の御言)
後半に、
「子供の成すべきことをサタンがすぐに持っていって成した場合には、また、神の二重の苦しみが生じてくるのです。だから、それは暗示や比喩をもってなす。表示や合図で持って教えるのです。」
とあります。
「子供がなすべきことをはっきりと教えた場合、それを先にサタンが理解し持っていって成してしまうと、神様の二重の苦しみが生じる」
と言っておられます。
ですから、はっきりと教えられない。そのはっきりと教えていない部分から真理を探し出して、それを実践していくことは、私達の大事な責任分担なのではないでしょうか。
また、
「本に隠された事実以上のものを知らなければならない」
という御言もあります。
「1週間修練、21日、40日修練を受ければ、それで統一教会の正会員だと考えてしまい、本を無視してきたという弊害があるのです。本を棚の上に上げておいて、ほこりをかぶらせたのが大きな失敗です。
原理というものは、毎日の信仰生活で私たちが行くべき道であり、原理の深さは無限なのです。皆さんは、今、本に記録されていない内容に、どれほど膨大な世界があるのかを知りません。自分がそれを開拓し、疑問に思う全てのことは、信仰生活の程度に応じて、知りたい分野を啓発していかなければならないのです。本に隠された事実以上のものを知らなければならないのです。ですから本自体を知らなければいけないのです。
それを本棚の上に載せて、装飾品にするために、そのようなことをしたのでしょうか。歴史的な材料が死んだまま眠っていてはだめなのです。千回、回覧させれば歴史が生き返り、再創造の役事をすることができるのです。」 (ファミリー 96年9月 P19 第34回 「真の神の日」)
訓読をして「本自体を知る」のは、
「本に隠された事実以上のものを知るため」
とのことです。
さらには、次のような御言も。
「『み旨と世界』という本は、‥‥‥そこにも自分達で理解できない所がたくさんあります。わざと先生がそのように残しておいたのです。」 (ファミリー 96年8月 P9)
「文先生が、
『自分達で理解できない所がたくさんあります。わざと先生がそのように残しておいたのです。』
と言っておられるぐらいだから、私たちに分かるはずがない。分かろうとすること自体が無理なことである。分からなくても信じればいいんだ。」
という主張も成り立つでしょう。
ですが、
「文先生が言われたかった真意があるならば、一つでも二つでもいいから分かりたい」
と思う気持ちをもつことも大切なのではないでしょうか。
御言の分かりにくい部分を理解する鍵について、文先生は次のように言っておられます。
「いつでも、二重的な言葉の相対を見つけ出さなければなりません。対応語は何かということです。対応語を見つけ出すのは、私がチャンピオンです。原理世界の正しいことを教えるために、私がすべてつくったのです。」 (ファミリー 04年10月 P23)
時に、これを一つの手がかりにしながら、御言を読み進めて行きたいと思います。
次回は、御言の中に「暗号」、「暗示や比喩」、「表示や合図」がある理由について、もう一つの面について触れたいと思います。すでにおわかりかもしれませんが、「人間の責任分担のため」ということです。
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