47.「人間の利己的傾向は、ある一時期、神御自身が自己中心的であられたため」 | 御言 missing link

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47.「人間の利己的傾向は、ある一時期、神御自身が自己中心的であられたため」

 今回は、自己中心と罪の根との関係について考えてみたいと思います。
 
「サタンは、堕落した天使長であり、神と人間に対する忠実な僕としての立場を離れて、神に挑戦し、神と競争したのです。彼の動機は利己心でありました。彼の利己心から悪と罪の源が出てきたのです。 (み旨と世界 P266 人間に対する神の希望)

 ここで、文先生は、
「彼の利己心から悪と罪の源が出てきたのです」
 と言っておられます。
 私は、この「罪の源」という言葉が「罪の根」や「原罪」と同義なのか、あるいは異なるのかということに関して、文先生の御言の中に明確な定義を見出せてはいません。ですが、言葉の意味から、家庭連合的には、これらをほぼ同義とみてよいと考えています。そうすると
 「利己心」「罪の源」≒「罪の根」≒「原罪」
 となります。もちろん、これは、原理講論が言っていることと異なってしまいますが。

「堕落は、神様を中心としてアダムとエバが一つにならなければならないのに、神様の僕である天使長と一つになったことをいいます。神様の血統を受け継がなければならない人間が僕の血を受け継いだことです。ですから堕落した人間がいくら神様を「父」と呼んでも実感がわかないのです。これは神様であろうと何であろうと関係なく、すべてを自己中心にだけ連結させて考える堕落性本姓が遺伝したからです。 (祝福家庭と理想天国Ⅰ P439 創造本然の男女の愛)

 私達は、
「堕落した人間がいくら神様を『父』と呼んでも実感がわかない」
 その理由は、「原罪」ゆえにサタンが相対できる条件があり、神様のみと相対することができないようになってしまったから、と原理で学んできたと思います。
 特に、上の御言の
「神様の血統を受け継がなければならない人間が僕の血を受け継いだ」
 という状態を、「原罪をもっている」と理解してきたのではないでしょうか。
 そうであれば、
「堕落した人間がいくら神様を『父』と呼んでも実感がわかない」
 ということの理由は、
「原罪を持っているからです」
 となってよいと思うのですが、上の御言では、
「すべてを自己中心にだけ連結させて考える堕落性本姓が遺伝したからです」
 となっています。
 以前、本体論修練会に参加したとき、講師がある分派の考え方を否定していました。それは、
「彼らは、堕落性本性が原罪だと言っている。とんでもないことだ。堕落性本性と原罪とは全く違うものだ。」
 ということでした。
 私も以前は、この違いがはっきりわかっていない者は、罪も、許しも、救いも、メシアも分かるはずがないと思っていました。
 ですが、最近は、少し慎重になっています。
 御言の中には、読み方によっては、上のように
 利己心≒自己中心 → 罪の根≒原罪≒堕落性本性
 ととることができる内容があるからです。
 しかも、文先生は、その「自己中心」の始まりは神様だったという御言さえ残しておられます。

「我々人間のすべての特質は、神から来ているのであります。我々は、人間には利己的な傾向があるということを知っています。これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。この事実はあなたを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたということを理解しなければなりません。しかしながら、神が創造に着手されたその瞬間に、神の中の生命という概念が完全にかたちとして現れてきたのです。神は、今や、御自身のためではなく、その対象物のために生きるようになったのです。」 (「御旨と世界」 P262 人間に対する神の希望)
 
 天地創造以前の神様は、たった一人でおられた神様であり、自己も他もない状態でした。そこから始まった創造が、自己中心から始まったといえば、それも事実となるようです。しかし、創造に着手され、対象が現われた瞬間から、神様は完全に対象のために生きるようになられたとのことです。
 私達も、地上に誕生し、最初は自他の区別のできない自己中心から出発します。そして、次第に周囲との関係を認識し、そのかかわりを拡げたり、深めたりしながら生きるようになります。その過程の中で、神様の心配は、人間が、はたして自己中心から為に生きる生き方へと成長することができるかどうかということだったのかもしれません。また、肉体をまとった人間はどうしてもその固体維持の欲求からか、自己中心的になりがちです。
 そこで必要だったのが、「戒め」だったのではないかと思います。「戒め」は、単に「時がくるまで関係を持ってはいけない」というものではなかったのかもしれません。自己中心から完全に脱却し、為に生きることに開眼するという目的もあったのではないかと。
 そして、アダムとエバの場合は、まず二人の関係からの出発でした。ために生きる意識と愛の成熟を待って結婚することによって、本当の意味で、相互に為に生きる生活が始まるはずだったのではないでしょうか。
 そして、そのとき同時に、神様が二人に臨在し、すべての相続をなすという予定でもあったようです。それができずに、未成熟のまま、そして相続がなされないまま、歴史が延々と流れてきました。何度も復帰摂理の過程を経ながら。
 
「なぜ結婚しなければならないのでしょうか。結婚するのは、万物の主人として決定されるためです。このすべての被造世界は成熟したものとして立てられていますが、人間だけが成熟できていない位置にいるので、成熟する時を待ち、成熟すれば、すべての万物の霊長であるアダムとエバ自身も、必ず男性と女性の愛を中心として一つにならなければならないのです。」 (環太平洋摂理と巨文道 P94、御言選集196 P222 1990.1.1)

「結婚する前は、神様が主人の振る舞いをします。所有の主人です。宇宙の主人であり、その主人の相続者がアダムとエバでした。ですから結婚する前は、その所有権が神様のものですが、真の愛の関係によって神様と一体理想を成せば、神様の所有が私の所有になるのです。結婚する前日までは、宇宙の所有権は神様にあるのですが、その所有権が私のものにならなければならないのです。私が二番目の所有の主人にならなければならないということです。」 (環太平洋摂理と巨文道 P96、御言選集284 P103 1997.4.16)

 真の愛を中心として為に生きるという夫婦の完成は、神様が臨在するために必要なすべてだったのかもしれません。天地創造以前に神様が払拭しようとしても、お一人しかおらず、どうしようもなかった「自己中心」という心配が克服される瞬間でもありました。それが、神様が期待した人間の責任分担の一つであり、ある意味で、神様さえどうすることもできなかったことを人間が成したといえる偉大な瞬間となったはずなのかもしれません。
 ただし、それがなぜ、神様の臨在を可能にするのか、成熟を待たずに関係をもつとその道が塞がれてしまうのかどうか、その仕組みのようなものについては、よくわかりません。
「神様がそのように原理を定めたから」と言ってしまえば楽ですが、そこには、きちんとした理由があるはずだと思っています。そして、創造原理が論理的・科学的であるのなら、同様に、その理由も論理的・科学的であるのではないかと考えています。

皆さんは、愛を受けよう、人に何かをしてもらおうと思うでしょう? 堕落したので、それは不可避なことです。堕落していなければ、神様に似たので、為に生きようという愛になるのです。」 (ファミリー2007年12月 P23 平和のメッセージ13「神様のみ旨から見た環太時洋時代の史観」解説 2007.9.23 ニューヨーク・マンハッタンセンター)

今、皆さんが怨讐として対すべきものとは何でしょうか。それは、皆さんに与えられた物質を自分だけのためのものだと考える、邪心です。ですから、皆さんは、自分にひとかけらのパンがあれば、それを万人に分け合って食べることを願われる、神様の心を身代わりできなければなりません。食べる物があれば、それを食べる以前に、家庭のために与えることのできる心にならなければならず、社会、民族、国家、世界人類のために与えることのできる心をもたなければなりません。
 このような心を所有してこそ、人間は、正常な過程を経て完成できるのですが、今日、大部分の人たちは、これを忘却したまま生きています。これを皆さんは残念に思わなければならず、またそれが堕落の立場であることを知らなければなりません。」
 (神様の祖国と双合七八禧年祝福を勝利しよう P42、御言選集 3 P127 1957.10.13)

 以前にも提示させて頂いた御言です。私達は、まだ、文先生が上の御言の中で指摘しておられる課題を、克服できていはいないと思います。

 堕落した人間の自己中心的な姿は、自責の念に似た苦痛を神様に与え、神様の心に非情な痛みを生じさせてしまうのかもしれません。(こんな簡単な表現で済ませられるものではないと思うのですが。)
 だとしたら、文先生が、「自己中心を克服し、為に生きよ」ということを何度も強調された理由は、神様を思えばこそだったのではないかと思えてきます。
「自己中心」と「為に生きる」という、一般でも通用するこの言葉が、神様と文先生の間には、私達の知らない特別な意味をもっていたのかもしれません。
 さらに、人間のこのような状態は、独力で完成することのできない天使長と同質でもあります。

 神様に苦痛を与え続ける人間、自力で完成できない人間。

 そこで、文先生は、
「サタンの血統」
 と言われたのではないでしょうか。

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