46.「原罪」はキリスト教のでっちあげ? | 御言 missing link

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46.「原罪」はキリスト教のでっちあげ?

 今回のテーマについては、思うところは大きいのですが、御言的な根拠はほとんど皆無です。「御言を根拠に」というこのブログの趣旨と異なってしまいますが、私自身の疑問の一つでもあり、皆様にもご検討をお願いしたいと思い、記事にすることにしました。
 問題提起としてお読み頂き頂けると有難いです。

 さて、本体論修練会では、原罪の清算について、講師が次のように説明していました。

「神様と文先生とサタンの三者協議により、聖酒を飲んだ者は原罪が清算され、サタンの血統から神様の血統に移るという取り決めが成された。それを可能にしたのは、真のご父母様の勝利圏である。」

 血統的つながりとは、協議(話し合い)によって、
「いままでの血統はこれで清算、きょうからは新しくこちらの血統」
 と言えるようなものなのでしょうか? 
 血統が協議を超えることはできても、協議が血統を超えることは可能なのでしょうか?
「それを可能にしたから偉大なんだ」
 とも言う人もいるでしょう。
 ですが、いくら文先生が多大な蕩減条件を払ったとはいっても、三者協議によって、血統の切り替えが可能になったことを信じなさいというのは、どこか力技のような印象が残ります。
 ここは「信仰的」にというよりも、客観的に、これまで家庭連合が持ってきた原罪観と救済観が今後も世界のどこに行っても、さらには将来的にも通用するだけの普遍的な論理性を有しているかどうかという観点から考えて頂けたらと思います。そのような整備の仕事がまだ残っているように思います。
 この件に関して、私はここ2~3年考えを巡らしてきました。そして、あるとき、ふと思ったのは、もしかしたら、もともと、原罪には、私達が考えてきたような「実体」は、存在しないのではないか、ということでした。
 堕落の事実はあって、また、それによって生じるようになった堕落性のような性質が受け継がれてきたとしても、原罪そのものには「実体」といえるようなものはないのでは、と思ったわけです。
 その実体がないにもかかわらず、キリスト教が、何かつかみ切れない人間の性質を「原罪」という言葉に収め、その結果、信徒を信仰に縛り付けることに成功したとしたら‥‥‥。

 三浦綾子さんの小説「氷点」は「原罪」をテーマにしていると言われますが、その最後に、「実は犯人の娘ではなかった」というどんでん返しがあります。私は、初めて読んだとき、その意味がどうもよく分からなかったのですが、今は、もしかすると、キリスト教徒の中にも上で申し上げたことと同様の考え方をもっている人が少なくないのでは、と思ったりしています。

 そうなるとキリスト教的な「原罪」の解決は、2000年のキリスト教の蕩減条件を払った上で、そのキリスト教人口に匹敵する数的な祝福を勝利することをもって、「全人類に原罪なし」とすることができたという可能性があります。

 2001年までの数年間、激しい祝福伝道のプッシュがあり、最後は、「聖酒キャンディーで」という摂理がありましたが、その背景には、上のようなこともその理由の一つとして考えられると思います。

「愛する天のお父様。たった今、キリスト教歴史2000年を終え、3000年に向かって出発する2001年の新しい時代を迎えました。」 (2001年1月1日 第34回 「真の神の日」 午前零時の祈祷)

 ことによると、従来のキリスト教的概念での「原罪」は、この2001年「真の神の日」の文先生の祈祷をもって、基本的には、全人類規模で解決されたのかもしれません。
 そして、「原罪」という言葉にとらわれるよりも、
「堕落が何かというのです。神様と愛の関係を結んだ因縁を、失ってしまったのが堕落なのです。」 (ファミリー98年1月 P8)
 の解決の方がより重要で深刻な問題のように思えてきます。

「本来、『原罪』そのものには直接解決すべき実体はなかった。キリスト教徒が信じている『原罪観』に表象される人間の問題に対し、文先生は、キリスト教の『原罪』という言葉に乗った上で、再臨主として根本的な解決をもたらそうとされた。」
 と考えることはできないでしょうか。

「罪がどこから現れたか。聖書に書いてあるのは、善悪を知る木の果を食べたから生じたと。そういう問題じゃない。それは心情問題が問題となった。心情問題で堕落した。この血とこの身が骨が出発点になっておる。」  (御言葉集2 P188 我々は何も言えません)

 上の御言の
「聖書に書いてあるのは、善悪を知る木の果を食べたから生じたと。そういう問題じゃない。」
 の部分ですが、「そういう問題じゃない」
 の後に来るべき言葉は、原理講論的には
「不倫なる血縁関係で堕落した」
 だと思います。ところが、そこが、この御言では
「それは心情問題が問題となった。心情問題で堕落した。」
 となっています。堕落に対する原理講論的な説明をしておれれるわけではないようです。

 さて、仮に「原罪には実体(もう少し的確な言葉があればと思っていますが)はない」、極論して「キリスト教のでっちあげだった?」としても、それで人間に関する問題が解決したわけではありません。大きな課題が残されています。

 それは、

人間には血気・怒気をはじめとする堕落性が厳然として残っている。
それが、祝福家庭を見るかぎり、祝福以後、解決されてはいない。
怨讐を愛する愛も、縦横の真の愛の完成もまだまだ遠く、
私達祝福家庭の中から、理想を完成したと言える個人・家庭はいまだに現われていない。そしてどうも当分現われそうもない。
それどころか、「完成」とはどういう状態をいうのかさえ、分かっているとは言えない。
分かっていない状態を目指しているのであれば、まっすぐにたどり着ける保証はない。

 ということです。


縦的神の愛と横的父母の愛。縦的な真の愛と横的な真の愛が一つになって、世界の血統的内容を抱擁した上に立つ愛を、真の愛というのです。そこが私たちの生命の元になります。」(祝福 63 P159)

 第44の記事で提示した御言の一部ですが、この御言の通りの「真の愛」を完成した祝福家庭は残念ながら見当たりません。
 聖書の創世記3章24節に、
「ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。」
 とありますが、その道は依然、閉ざされたままのように感じられます。
 ですから、私には、どうしても出会ってみたいと思っている存在があります。
 文先生に続く「モデル理想家庭」
 です。そして、それは今まで私が申し上げてきた

「後継者」
「直系を受け継ぐ一中心」
「第4次アダムの中心」
「氏族メシアの中心」
「天国に行くコーチをする主人」
「怨讐を怨讐でないかのように愛することのできる人」
「縦横の真の愛の実体」


 として現われるのだと思います。
 一度、その人格の衝撃を受けてみたい、
 という願望があります。

 また、このことは、文先生がどんなに言いたくても明言するわけにはいかなかった内容だったのだと思います。言われたから信じるでは、人間に付与された自己責任分担に抵触するからです。
 創造原理的には「モデル理想家庭」は、必ず現われなければならないはずの存在です。 

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