45.「父子関係は血統的につながり、夫婦関係は血統的につながりません」 | 御言 missing link

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45.「父子関係は血統的につながり、夫婦関係は血統的につながりません」

 聖書の中に、イエス様が「原罪」という言葉を使って語られた内容はありません。「まむしの子らよ」という言葉ならありますが。 
 そして、旧約、新約ともに聖書の中には「原罪」という言葉はありません。
 では、文先生はどうでしょう。私が指摘するまでもなく、文先生が、何度も「原罪」という言葉を用いて御言を語っておられたことは、よくご存知のことと思います。

「約婚式は、アダム・エバが約婚の時に堕落した、それを復帰しなければならない。堕落して汚れた血統を受け継いだ、その血統を転換しなければならない。これをしないと原罪が脱げないし原罪を乗り越えないと真の子女として祝福される段階に上がることができない。原理がそうなっているんだね。堕落した原罪を脱ぐ血統の転換、血肉の交換がこの聖酒式である。
 この聖酒式は、イエス様を中心として言えば、聖餐式である。血と肉の代わりにパンとぶどう酒を飲む。堕落したんだからイエス様の体を受けることで新しい肉体を受肉しなければならない。それと同じように、この聖酒式は堕落した行程と反対の方向にもって行かなければならない。
‥‥‥‥(途中略)‥‥‥‥
 この聖酒はいかに作られるかというと、陸海空を象徴し、全体を象徴しているものから作られた酒である。三種類の酒が入っている。これを飲むということは、霊的に生まれ、肉的に生まれる、ということである。
 この式がなければ原罪を脱ぎ、血統を転換することはできない。血統が転換されなかったならば、完成基準を通過して神の愛と一体となることはできない。その全てを蕩減する式であることを知らなければならない。
 (祝福2号 37p~40p 聖酒式のみことば 1970年 10月10日 水沢里)

 聖酒式の意義について語られています。特に最初の段落の最後のところには
「堕落した原罪を脱ぐ血統の転換、血肉の交換がこの聖酒式である」
 とあります。このような御言を根拠に、私達は
「聖酒によって原罪が清算される」と教えられてきましたし、また、そう信じてきました。

 ところが、私には気になってしまう箇所があります。
 まず、第2段落の
この聖酒式は、イエス様を中心として言えば、聖餐式である。血と肉の代わりにパンとぶどう酒を飲む。堕落したんだからイエス様の体を受けることで新しい肉体を受肉しなければならない。それと同じように、この聖酒式は堕落した行程と反対の方向にもって行かなければならない。」
の部分です。
 聖餐式によってキリスト教徒が「新しい肉体を受肉」しているかといえば、それはあくまでも象徴であって、肉的な救いは残されたままであるというのが私達の認識ではないでしょうか。ですが、
「それと同じように、この聖酒式は‥‥‥」
 と言っておられます。
「聖餐式」は、キリスト教では非情に重要な儀式です。ですが、原理を知った私達から見れば、単なる儀式です。それを、そのまま「聖酒式」に当てはめてはいけないとは思うのですが‥‥‥。
 また、第3段落初めの
「陸海空を象徴し、全体を象徴して」
 の「象徴」という言葉です。
「象徴」するものによって原罪が清算されるということについて、教会の旧来的説明ではなく、もう少し理論的かつ科学的な説明が欲しいと思っています。そうでなければ、結局は、最後は「信じるか、信じないか」となってしまい、それでは万民救済は難しいのではないでしょうか。
 そして、最後の部分には
「その全てを蕩減する式であることを知らなければならない」
 とありますが、この「蕩減」はどちらかというと実体的蕩減というよりも「象徴」的蕩減ととるべきなのではないでしょうか。
 原理には、蕩減の方法として「減償法」という言葉があります。祝福家庭として、上のような疑問は、すべてこの言葉の中に収めるべきなのかもしれませんが、収めきれないものを感じるのは、私だけでしょうか? 
「原罪」はすべての問題の根源です。それが祝福によって清算されることにより、そこから表出するすべての問題が解決される。現に私たちはそれを体現している、と言えるのであればよいのですが、課題は残ったままの状況となっていないでしょうか? その原因を、あくまでも、そしてどこまでも、私達の努力が足りないからだというところに落とし続けていくのでしょうか。努力が足りないからではなく、理解が足りないから、努力するポイントを外しているからということはないでしょうか?

 さて、原理講論では、原罪を
「人間始祖が天使と不倫なる血縁関係を結んだこと」
 と定義し、それが子々孫々受け継がれてきたと、説明しています。
 ですが、次の御言を読んでみてください。少し違う意味が見え隠れします。何をおっしゃりたいのかつかみにくいところがあります。重要だけれども、はっきりと教えることのできない内容がありそうです。

「このように見るとき、二つの父母が生まれました。神様側の息子、娘は天国に行くのであり、サタン側の息子、娘は地獄に行くのです。見えない霊的父母である神様とサタンの間で、分かれたのでしょうか? そうでなければ、見える私たち人間、子女の立場から分かれたのでしょうか? 今日、この地上で愛というものが始まるとき、人が一人だけで関係を結んで、始まったのでしょうか? 見えない神様と二人の間で関係を結んだのでしょうか? 見える人同士で愛の関係を結んで始まったのでしょうか? そうではありません。見えない父が二人いて始まったので、どちらか一人の父親が先に、この愛の関係を結んだというのは間違いないと考えるのです。愛の関係は、同時に二人と結ぶことはできないからです。見えない霊的サタンと神様のうちで、どちらの父と関係を結んだのでしょうか? (『サタンです』)。皆さんは、サタンを見ましたか? (笑い)キリスト教が、根本問題であるこのようなことを考えなければならないのです。元来は、神様が父母にならなければならないはずなのに、サタンが父母になったという事実は、善悪を知る木の果を取って食べたことによってなったのでしょうか? 何の関係によってなったのでしょうか? これは深刻なことです。愛の問題を離れて、善悪を知る木の果を取って食べることによってサタンが父親になり得るのだろうか、という問題です。(『愛の関係によってです』)。見ましたか? 神様がこのような愛の関係を結んでいたならば、そこで、サタンの父母が生まれ得るでしょうか? (『生まれ得ません』) では、堕落が何かというのです。神様と愛の関係を結んだ因縁を、失ってしまったのが堕落なのです。分かりましたか? (『はい』)」 (ファミリー98年1月 P8 真の子女の勝利圏を完成しよう 父子の関係は血統的関係)

 最初に、
「二つの父母が生まれました」
 とありますが、これは、この後に
「見えない霊的父母である神様とサタンの間で、分かれたのでしょうか?」 
 とありますから、神様とサタンのことだと理解できます。

「この地上で愛というものが始まるとき、‥‥見えない神様と二人の間で関係を結んだのでしょうか? 見える人同士で愛の関係を結んで始まったのでしょうか?」
 とありますが、「見える人同士」というのは、その前に、
「見える私たち人間、子女の立場から分かれたのでしょうか?」
 とあることから、アダムとエバのことと言っていいでしょう。
 この「見える人同士」であるアダムとエバが「愛の関係を結んだ」ことによって「この地上で愛」が始まったわけではなく、その前に、
「見えない父が二人いて始まったので、どちらか一人の父親が先に、この愛の関係を結んだというのは間違いないと考えるのです」
 と言っておられます。
 サタンと先に愛の関係を結んだということを指摘しておられるようです。
 また、「愛の関係」という言葉は、縦的なものと横的なものがありますが、そこをはっきりとさせずに使っておられるようです(重要だけれども、はっきりと教えることのできない内容のため?)。ここでは、
「神様がこのような愛の関係を結んでいたならば、そこで、サタンの父母が生まれ得るでしょうか? (「生まれ得ません」)」
 とあることから、「どちらか一人の父親と先に結んだ愛の関係」とは、本来神様と人間が結ぶべきであった、父子関係における縦的な愛の関係のことのようです。

 また、中ほどでには、
「キリスト教が、根本問題であるこのようなことを考えなければならないのです」
 とありますが、このような場合、私達は、
「クリスチャンは、善悪知るの木の果というのがあって、それを食べたことで原罪をもつようになったと、いまだに信じているんだから‥‥‥」
 と思ったりします。
 この「キリスト教」とは、文字通りのキリスト教でしょうか? キリスト教を代理する使命をもった私達食口のことを言っておられる可能性があるということはないでしょうか?
 私達が、教えられてわかったのではなく、悟って分かったとするために、このような置き換えをされた可能性もあります。
 もしそうであれば、上の御言の後半にある
「サタンが父母になったという事実は、善悪を知る木の果を取って食べたことによってなったのでしょうか? 何の関係によってなったのでしょうか? これは深刻なことです。愛の問題を離れて、善悪を知る木の果を取って食べることによってサタンが父親になり得るのだろうか、という問題です。」
 の部分ですが、文先生は、食口が集まっているこの場面で、「善悪を知る木の果を取って食べる」ということの意味を、ただ原理講論的に説明しておられるわけではないはずです。以前にも提示した次の御言を視野に入れてご検討頂きたいと思います。

「皆さんは先生が分かりますか。先生が分かりますか、分かりませんか。どう分かりますか。先生の何が分かりますか。顔だけが分かるでしょう。皆さんが分かる原理を教える程度の先生だと思いますか。皆さんが分かる原理は、イエス様までの原理です。先生の時の原理ではありません。」(祝福家庭と理想天国Ⅰ P802 「祝福の意義と価値」)

 もし、上の御言の「キリスト教」が「統一教会」の置き換えであるとしたら、ここは、青字の部分を次のように言い換えることができるのではないでしょうか。

「サタンが父母になったという事実は、性的な関係によってなったのでしょうか? 何の関係によってなったのでしょうか? これは深刻なことです。(縦的な)愛の問題を離れて、性的な関係によってサタンが父親になり得るのだろうか、という問題です。」

 そうであれば、「いったいどうやってこの問題を解決できるのだろう」となるぐらい「深刻」なことなのかもしれません。
(「愛の関係によってです」)と誰かが答えていますが、それに対して「そうです」とは言わず、
「見ましたか?」
 と言っておられます。それは、
「見ていない」、「見えない」
 ということを確認することで、見えない関係が重要で、そこに堕落の出発点があったということを言われたかったのではないでしょうか?

「では、堕落が何かというのです。神様と愛の関係を結んだ因縁を、失ってしまったのが堕落なのです。分かりましたか?」
 最後は、私達に理解できる言葉で結んでくださっています。
「神様との愛の関係を結んだ因縁を失ってしまったのが堕落」
 とのことです。

 次の2つは、父子の関係についての御言です。

「父子の関係は血統的関係があります。このことを知らなければなりません。」 (ファミリー 98年1月 P9 真の子女の日の御言葉)

「愛には縦的愛と横的愛があるのです。父子関係は縦的愛であり、夫婦関係は横的愛です。縦的愛は血統的につながり、夫婦関係は血統的につながりません。分かりましたか?」 (女性訪韓修練会御言集 P12)
 
「原罪」というものに、もう一歩踏み込んで理解しなければならない本質があるように思います。
 堕落、原罪と言えば「性的なもの」というのが私達の認識だったと思います。ですが、
「夫婦関係は血統的につながりません」
 とのことです。
 堕落論で説かれている「不倫なる血縁関係・淫行関係」を否定しようというわけではあません。これを言っておかないと、「サタンに利用されて、原罪をぼかそうとしている」と言われそうです。ただ、「祝福の意義と価値」および「堕落や原罪」の理解を見直すことができなければ、現実に残されている多くの課題を解決することはできないでしょう。

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