43.「怨讐を愛する」 | 御言 missing link

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43.「怨讐を愛する」

 今回の御言は、
「後天時代の生活信仰 第六節 怨讐を愛する」
 からの引用です。

「太初には、神様とアダムとエバ、そして天使長がいました。ここでアダムとエバは子女であり、天使長は僕です。神様は、人間を造る前に天使長を愛されました。その愛する基準はどこまででしょうか。人間が完成し、神様の愛をそっくりそのまま相続する時までです。その時までは愛を受けるというのが天使長の権限でした。その時まで、天使長は、愛を受ける権限があったのです。神様の懐で愛を受け、忠誠を尽くす忠臣にならなければなりません。そして、アダムとエバは孝行の道を行かなければなりません。」

 人間が完成する時まで、天使長は神様の愛を受ける権限があっとのことです。その結果として、忠誠を尽くす忠臣になるということだったようです。
 
 続きです。
 
「それでは、人間が完成し、神様の愛を完全に相続するときまで、神様が天使長を愛しましたか、愛することができませんでしたか。できなかったでしょう? できなかったので、天使長には神様から愛を受け得る条件があるでしょうか、ないでしょうか。あるというのです。それで、『愛を完全に受けるまでは、私にほかの法を教えることはできない』と言うことができるのです。『自分が受けるべき愛を受けられなかった』と言うのです。このように、天使長にも愛を受けられなかった恨が残っているのです。 
 神様の愛だけを受けられなかったのではありません。天使長が神様の息子である人間の愛を受けてみましたか。アダムが神様の息子ならば、彼は神様の代身です。そのように見れば、天使長は神様の僕なので、神様の息子である人間にとっても天使長は僕です。それでは、いつ人間が僕を愛したでしょうか。愛しましたか、愛することができませんでしたか。絶対にできなかったというのです。したがって、人間がサタンを愛したという条件を立てなければ、絶対に通過することができないのです。分かりますか。」


 結局人間が完成できなかったので、天使長は神様の愛を完全に受けることができなかったと言っておられます。また、そればかりでなく、完成した人間の愛も受けることができなかったとのことです。
「天使長にも愛を受けられなかった恨が残っているのです」
 とも言っておられます。
 そのため、
「人間がサタンを愛したという条件を立てなければ、絶対に通過することができない」
 とのことです。 

 続きです。

「このような問題が引っ掛かっているので、これを果たすまでは、サタンを思いどおりに主管することはできません。ですから、打つことができないのです。これを解ける人が現れなかったので、このように悪の世界が六千年間も延長したということを、皆さんは知らなければなりません。
 神様の摂理を成し遂げるにおいて、アダムの立場はアベルであり、天使長の立場はカインです。ですから、神様の息子、娘になって天上世界に帰るためには、アベルとしてカインを絶対的に愛したという条件を立てなければなりません。そのようにしなければ、天上世界に入っていくことはできないのです。これが公式です。今日まで、数多くの宗教がこの問題を知らずにいたのです。」
(34-273)

 最後の方に、
「神様の息子、娘になって天上世界に帰るためには、アベルとしてカインを絶対的に愛したという条件を立てなければなりません。そのようにしなければ、天上世界に入っていくことはできないのです。これが公式です。」
 とあります。よく知っている内容だとは思いますが、果たして、
「天上世界に入っていく」
 ことができる基準で、
「アベルとしてカインを絶対的に愛したという条件を立てた」
 という方はおられるのでしょうか。
 私達はこの「公式」を忘れて、恩恵に頼って天国を目指しているということはないでしょうか? 

 続きです。

「神様は、怨讐に対して剣を振りかぎさなければなりませんか、許さなければなりませんか。許すのは簡単なことでしょうか。皆さんが怨讐に対するとき、心はどうですか。言葉が出るでしょうか、出ないでしょうか。胸が詰まるのです。自分の息子、娘を奪って殺した者であり、内外の世界をすべてめちゃくちゃにしてしまったのです。ところが、そのような怨讐に対しても、そのようなことがなかったかのように対さなければならない立場にいらっしゃる方が神様です。そのように対さなければ、復帰の役事ができないのです。怨讐になったことがないかのように考えなければ、救いの役事ができないのです。怨讐ではないかのように対さなければ、許したという立場に立つことができません。そのようなところから『怨讐を愛しなさい』という言葉が出てくるようになったのです。ですから、怨讐を愛さなければなりません。歴史になかった新しい法度が初めて出てきたのです。」(27-65)

 ここでは、
「怨讐に対して、そのようなことがなかったかのように対さなければならない」
「怨讐になったことがないかのように考えなければ、救いの役事ができない」
「怨讐ではないかのように対さなければ、許したという立場に立つことができない」

 と言っておられます。厳しい基準です。

 続きです。

「怨讐を許すにおいて、何をもって許してあげるのでしょうか。剣で許すことができますか。できません。神様は、創造過程に入り込み、宇宙全体の数千万の存在を一度に破壊させたサタンを許されました。夢にも考えることができない怨讐であるにもかかわらず、許されたのです。それだけでなく、愛さなければならないのですが、どの程度愛さなければならないのでしょうか。怨讐になっていなかった時に愛した、それ以上に愛さなければならないのです。
 神様が昔アダムとエバに対した愛の心の基準では、復帰することができません。怨讐の子女になったので、堕落する前にアダムとエバを愛していたその心の基準で救うことができるでしょうか。それでは救えません。アダムとエバを愛した以上に怨讐を愛し、怨讐の子女を自分の子女に対する以上の心で愛する動機をもたなければならないのです。
 ですから、怨讐を愛さなければ天の国に行くことができません。神様の息子、娘になろうとすれば、そのような峠を越え、その心の世界の同行者となり、その心は神様の代弁者となり、真理とみ旨を中心として闘い、実績を残さなければならないのです。
(27-65)

 ここでは、
「怨讐になっていなかった時に愛した、それ以上に愛さなければならない」
「怨讐の子女を自分の子女に対する以上の心で愛する動機をもたなければならない」

 と言っておられます。

「これは怨讐だ、愛するぞ」と力んでいる限り、怨讐を許したことにはならないようです。
 そして、「怨讐を愛したという峠を越え」
「その心の世界の同行者となり、その心は神様の代弁者となり、真理とみ旨を中心として闘い、実績を残さなければならないのです」
 とのことです。
 なかなか大変なことです。果たして、努力すれば私達にもできることなのでしょうか?
 「その心は神様の代弁者となり、真理とみ旨を中心として闘い、実績を残す」
 というのは、文先生が成してこられたことではないでしょうか。
 文先生のような方にしかできないことのように思います。
 一つ前の御言には
「自分の息子、娘を奪って殺した者であり、内外の世界をすべてめちゃくちゃにしてしまったのです。ところが、そのような怨讐に対しても、そのようなことがなかったかのように対さなければならない立場にいらっしゃる方が神様です。そのように対さなければ、復帰の役事ができないのです。」
 とありますが、これは、神様のことであると同時に、文先生のことでもあると思います。

 私は、

「夢にも考えることができない怨讐であるにもかかわらず、許す」
「怨讐に対しても、そのようなことがなかったかのように対する」
「怨讐になったことがないかのように考える」
「怨讐ではないかのように対する」
「怨讐になっていなかった時に愛した、それ以上に愛する」
「怨讐の子女を自分の子女に対する以上の心で愛する動機をもつ」


 ということができた人は文先生だけだと思います。際限のない「峠を越え」ながら。
 そして、私は、それを相続したと言える人を知りません。どこかにいて欲しいです。文先生に続いて勝利した人が。
 私は、これができる人が

「後継者」
「中心家庭―直系を受け継ぐ一中心」
「第4次アダムの中心」
「氏族メシアの中心」


 だと、考えています。

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