25.「第4次アダム圏時代」 | 御言 missing link

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25.「第4次アダム圏時代」
 
 教会内では、一般的に、「第4次アダム」とは私達のことだと言われています。
 以前、何人かの先輩食口に、
「第4次アダムって、どういう意味なんですか?」
と聞いたことがあります。やはり、
「私達のことだ。」
という答えが返ってくるか、
「わからない。」
と言われるだけで、それ以上、話が進むことはありませんでした。
 今回と次回、この「第4次アダム」について考えてみたいと思います。
 以下、「 」で太字になっている部分は、すべて文先生の御言です。

「そのアダムの息子、娘が、神様とアダムの愛を受けることができなかったのです。神様の代身として、アダムの代身として、サタンが堕落した偽りの父母となって、死亡の谷をつくっておいたものを、反対に埋めなければ開放することができないので、必然的に、私たちの家庭がその責任を果たし、このあいた穴を完全に埋めてこそ、開放的家庭となり、その主人になることができ、開放が成されるのです。アーメンです。はっきりと分かりましたか。
 今から第4次アダム圏時代においては、これを実践せずには、天の家庭との関係を受け継いでいくことはできません。わかりますか。そのような時代に移行するので、あなたたちにこのことを通告したのです。これを実践しなければなりません。ここに符合できない家庭は、後ろに落ちていかなければなりません。第4次アダム圏に入っていくので、これをはっきりと教えてあげ、祝福家庭の価値がどれほど‥‥‥。
 失った8段階の愛の主人の資格をもったという看板を神様につけてさしあげ、神様と解放的な私と王子・王女が地上天上天国を自己主張し得る時代に移行するのが第4次アダム圏時代なので、完全に8段階の愛の理念を実践しなければならないのです。  
 わたしはこの御言を必ず話してあげようと思いました。今ではもう私があなたたちに、語ってあげることはありません。そして、訓読会を1度するよりも2度するのがよく、2度するよりも3度するのがよいのです。時間さえあれば訓読会をしなさいということです。さあ、それでは、喜んで「そのようになります」と両手を挙げて誓ったので、先生は無用物になりました。無用物は消えていくのです。別れのあいさつをします。拍手してくれるでしょう。ありがとうございます。」
 (祝福家庭18号 P68 「第1次入籍のための祝福家庭婦人特別修練会」) 

 最初の4~7行目に
「私たちの家庭がその責任を果たし、このあいた穴を完全に埋めてこそ、開放的家庭となり、その主人になることができ、開放が成されるのです。」
 とあります。やはり、第4次アダムとは、私達のことを言っておられるのかなと思えます。
 また、2つ目の段落の最初には、
「今から第4次アダム圏時代においては、これを実践せずには、天の家庭との関係を受け継いでいくことはできません。」 
 とあります。「実践」すべき内容とは、
「サタンが堕落した偽りの父母となって、死亡の谷をつくっておいたものを、反対に埋めなければ」
 ということのようです。この御言が語られた2000年ごろ(?)は、「死亡の谷」はまだ完全には埋まっていなかったことになりそうです。
 この「死亡の谷」とは何なのでしょうか?
「偽りの父母となったサタンがつくった死亡の谷」とは? 
 想起される言葉をあげれば、地獄、堕落圏、罪・原罪、堕落性、蕩減‥‥‥。 私たちが、本然の人間として完成しようとしても、自力ではどうしても超えられない一線、つまり、長成期完成基準もその一つかもしれません。
 ここで明確に限定することは難しいので、「私たちが創造理想を完成していくのを阻んでいるすべてのもの」と理解しておいたらいいでしょうか。
 そこがまだ埋まっていない。それを埋める責任を果たしなさい。それが、「第4次アダム圏時代」だと言っておられるように思えます。だとすれば、「埋まってもいない状態の私たちが第4次アダム」と言えるのでしょうか? 
 また、「第4次アダム圏」は、「天の家庭との関係を受け継いでいく」ために必要なことのようですが、「私達が天の家庭になる」のではなく「天の家庭との関係」と言っておられるところも気になります。
 3つ目の段落では、
「失った8段階の愛の主人の資格をもったという看板を神様につけてさしあげ、神様と解放的な私と王子・王女が地上天上天国を自己主張し得る時代に移行するのが第4次アダム圏時代なので、」
 とあります。ここで、
「解放的な私と王子・王女」
 についてですが、文先生が、ご自身のことを「解放の王子ではない」と言われていることは以前の記事でも確認しました。
 
「そのように、思いのままに朝食を食べ、昼食を食べ、夕食を食べ、好きなように歩き回りながら、“私ができることをやろう” と、活気に満ちた『解放の王子』ではないということを知っているので、今まで悲しみと苦痛の道を行き暗闇の道を光明の道に代置する道を教えようと、どれほど苦労したでしょうか? 」 (ファミリー 04年2月 P18  第10、16の記事で提示)

 ここでの、文先生の「解放の王子」の定義は
「思いのままに朝食を食べ、昼食を食べ、夕食を食べ、好きなように歩き回りながら、“私ができることをやろう”」
 ということのようですが、どう見ても、これは私たちのことではありません。また、文先生でさえ違うというのに私たちのことであるはずがありません。
 では、「解放的な私と王子・王女」とは誰のことなのでしょうか?
 そして、「第4次アダム」の御言は、文先生が
「必ず話してあげよう」
 と思っておられた内容であり、それをここで教えたことにより
「今ではもう私があなたたちに、語ってあげることはありません。」
「先生は無用物になりました。無用物は消えていくのです。別れのあいさつをします。」

 と結んでおられます。
 この最後の部分は、この場だけのことを言っておられるのでしょうか? まるで、文先生の時代が終わって、次の時代が来るかのような言い方に思えてきます。
 私たちが、このような、ある意味“淋しい”ことを言う場合、それは、もっと関心をもってほしいときだったりします。それと同じことが文先生にも当てはまるというのは、とても考えにくいことです。

「神のために、無条件に、涙の道を選び」
「悲しみと苦痛の道を行き」
「絶えず十字架の道を行く」
「ただ悲しい神の友になりたかったから」
(これまでの記事で提示した御言から)

 これを生涯貫いた文先生です。そのためには、生来の「解放の王子」の立場さえ、遠い昔に置き去りにした文先生です。
 今さら私たちの気を引こうとされるでしょうか。
 文先生が、
「先生は無用物になりました。無用物は消えていくのです。別れのあいさつをします。」
 と言われたのは、
「私たちが、完成した、あるいは完成の見込みが立って、もはや再臨主は必要なくなった」(ただし、これは、「死亡の谷を埋めなければならない」ということと矛盾しそうです。)
 か、または
「『三代の継続』の二代目・三代目の時代に移行した」
 のどちらかなのではないでしょうか?

 次の御言に行きます。

「神様が何度、結婚しようとされましたか? アダム時代、それからいつですか? イエス時代、再臨主時代、それから第4次アダム時代です。4度目に定着したと言うのです。
 神様は第1創造主、アダムは第2創造主、孫は第3創造主です。ここから蘇生、長成、完成、3を越えることによって定着します。それで4次アダムを立てることにより、みなアダム、息子、娘から繁殖していくのです。
 歴史的な怨讐に汚された愛を天の愛に変えなければ、霊界にいるアダムの後孫、イエス様の後孫、再臨主の後孫を救う道理がないのです。
 (ファミリー 00年7月 P43)

 ここで私が気になるのは、まず、「4度目に定着した」という部分です。私達祝福家庭の中に、「アダム時代、イエス時代、再臨主時代」という言葉に並べて「定着した」と言える家庭が果たしてあるだろうかということです。ないとは言い切れないかもしれませんが。
 また、「霊界にいるアダムの後孫、イエス様の後孫、再臨主の後孫を救う」という部分については、どうでしょうか? 自分の後孫に対してさえ心配が残るのに、このような大それた使命・責任があるとは考えにくいです。これも絶対ないとは言えなかもしれませんが。
 
「第一イスラエルが第二イスラエルの王権を推戴して侍らなければならず、第二イスラエルは第三イスラエルに侍り、アダム時代を中心として第四次アダム心情圏時代が定着してこそ、カイン・アベルに分かれていた理想的家庭の血筋が一つになり、一つの父母が一つの子女の権威を持って天上世界にそびえ立ち、永遠に灯台のように輝くことができる祖国光復の土台が決まるのです。」 (ファミリー 09年1月 P49 「原理本体論」につい)

 これはちょっと難しいですね。ですが、
「全イスラエルを一つにし、カイン・アベルに分かれていた理想的家庭の血筋も一つにし、一つの父母を立て、祖国光復の土台を決める」
 となると、これは、少なくとも私達のことを言っておられるわけではないと思えてきます。当てはまる方がおられればいいのですが。
「全祝福家庭で一緒になすんですよ」
と言われたとしても、
「それなら何とかなるかな」
とは、とても思えない現状・実情があるように思います。
 こう考えてくると、やはり、第4次アダムが私達のことだと受け止めるのはかなり無理があります。
 そして、ここで取り上げたいずれの御言も、「第4次アダム」が私達であるということをはっきりと言っておられるようには思えません。でも、私はそれが大事だと思っています。御旨に関することの核心は、明確には語られないはずだからです。
 ところが、次の御言は決定的です。

「真の父母は第4次アダム圏時代をつくられましたから、祝福家庭としてこの時代に生きる人は皆、第4アダムになります。 (97.9.11 第四次アダム圏時代宣布」

 文先生は、はっきりと私達が第4アダムになると言っておられます。これまで、私がくどくどと述べてきたことが、全部、飛んでしまいました。
 冒頭の一般的な解釈のように、やはり、私達が第4次アダムとのことです。御言にあるのですから、これは否定できません。
 ですが、ちょっと待ってください。ここで、深いため息をついて、再考したくなるのは私だけでしょうか?

「んー‥‥‥、こんなにはっきり言われたということは‥‥‥
‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
果たして、これが御旨の核心なのだろうか‥‥‥‥‥‥‥‥?」

「あまのじゃく!」といわれそうですが。

 私達は、神様と文先生を中心とする「復帰摂理の最終走者(アンカー)として招命された」と自負してきたと思います。だから、その完成を示唆するととれる「第4次アダム」という言葉に対して、「私達のことだ」と言われても、それほど抵抗がないのかもしれません。

「天使長は、ここにアダムとエバが最後だとは知らずに、自分が最後だと思ったのです。(第20回 2010年 「7・1節」 及び 「第14回 「7・8節」 )

 あくまでも天使長のことを言われたのであって、私達とは一切関係ない御言だ、と言いきることもできます。単に天使長についての1つの事実を明らかにされただけで、私達に直接必要なこととして語られたわけではない、と言うこともできるでしょう。
 ですが、
 天使長が超えることができなかった壁を、私達の復帰の最終的段階で、私達自身の責任分担として自ら超えないといけないという原理が残っているとしたら、
 にも関わらず、私達が「自分が最後だ」と思っているということを、文先生が知っておられたとしたら、
 直接的な表現を避けるため、天使長の話に置き換えられた可能性も否定できないと思います。

「世界基督教統一神霊協会は、天使長宗教圏です。‥‥‥天使長の使命しかできないというのです。息子の使命が果たせないのです。分かりましたか?」 (ファミリー97年10月 P22 七・八節のみ言 第16の記事で提示)

 もともと私達は「天使長の使命」を担っていたのですから。

 さて、まだ、記事途中ですが、すでに大分長くなってしまいました。今回はここで一旦終了し、「次回に続く」ということにさせて頂きます。


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