第16回 壬生義士伝 2 | ちょい悪爺LEONのブログ

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2010/07/08(木)
LEONです。
 
浅田二郎『壬生義士伝 上・下』を7割がた読みました。
平行して『新選組読本』も読んでいます。
 
刺激を受けてしまって、今日仕事で京都にいったついでに?(逆かも・・・)、新選組発祥の地
壬生の八木家にいってきました。
 
そもそも新選組とは・・・八木家HPから引用します。


幕末の文久3年(1863年)春、14代将軍家茂上洛にあたりその警護の為に上洛した浪士達は、
ここ洛西壬生村に宿所を求めましたが、間もなく江戸に呼び戻されることになりました。
しかしその中で当八木家を宿所としていた芹澤鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助、
新見錦、原田佐之助、藤堂平助、野口健司、井上源三郎、平山五郎平間重助、永倉新八の
13名(太字5名は芹澤派)は浪士隊から分かれて京に残り、文久3年3月16日八木家右門柱に、
松平肥後守御領新選組宿という新しい表札を掲げ、ここに新選組が誕生したのです。
当時、当家は11代八木源之烝應迅と申しました。その後しだいに隊士も増え当家では賄いきれず

前川家や南部家にも宿所を当てていました。


八木家長屋門
イメージ 1
 
 
八木家本玄関
イメージ 3
 
  
新選組は活動を始めますが、急造した組織であり、考え方も違うことから、 なかなか全体の結束が
固まらなかったようです。 このため、近藤勇や土方歳三らは、下に示すような「局中法度」を作り、
結束を図りました。
 
局中法度
イメージ 2
 
しかし芹澤一派はこれを守らなかったため、新見・野口は切腹となりました。
また芹澤・平山は惨殺されてしまいます。目に余る乱行に業を煮やした京都守護職松平容保
近藤に命じたと伝えられます。
 
再び八木家HPより引用します。


当家奥座敷は新選組三大内部抗争の一つ芹澤鴨暗殺の場で、文久3年9月18日どしゃ降りの
深夜芹澤鴨、平山五郎ら4人が斬殺されました。現存する刀傷の一部がその凄惨さを物語って
います。
こうして近藤が実権をにぎってから隊規も厳しくなり、又池田屋事件など新選組の最盛期を築き
ましたが、慶應元年(1865年)夏、壬生が手狭になってきたのを理由に西本願寺の太鼓番屋
屯所を移しました。その後、鳥羽伏見の戦いで敗れるまで壬生を洋式調練の場所にするなどして
江戸に下る最後まで深い繋がりがありました。


 
惨殺の夜、芹澤・平山・平間は花街島原でしこたま飲んで泥酔状態であったといいます。
平間は別の部屋で輪違屋の糸里と一緒にいて逃げたため助かっています。
浅田さんの小説では、糸里は芹澤に遺恨があり近藤派の襲撃に加担したことになっています。
まだ読んでないので・・・わからないのだけれど。
 
もうすぐ『壬生義士伝』を読み終わるので、次は『輪違屋糸里 上・下』です。楽しみです。