『元気でね、瑞穂。ごめんね。』

そう言って去っていく後ろ姿。

泣くでもなく、その後ろ姿をじっと見つめて。

未だに脳裏にこびりついたその光景は、俺を時々苦しめる。

大好きだった母は、ある日突然いなくなった。
幼かった俺を置いて。

ずっと一緒にいるって、約束してたのに。


____
_


「ねぇ土生くん、聞いてる?」

隣にいる彼女が、土生の顔を見上げていた。

「…んー、あ、ごめん。ボーッとしてた。」

「最近ボーッとしてること多いけど、何かあった?」

「ううん、何もないよ。テスト前だからさ、勉強しすぎかなぁ。」

土生がそうやっておちゃらけると、

「えー、土生くんってちゃんと勉強してるの?」

なんて疑いの目を向けられる。

「本当はしてない。ははっ。何でもお見通しだね。」

そう言って土生は彼女の頭を撫でた。



理佐が再びハイジャンに復帰して数週間が経っていた。

完全復活までは遠くとも、部活にも顔を出すようになって、毎日頑張ってるらしい。

幼なじみで親友。
心の底から理佐を応援していて、大好きで大切な存在で。
だから理佐のために色々尽くして、ようやく以前のように明るく笑ってくれるようになったことが嬉しい。

もう心配事は無い。

そう思っていたのに、最近やたらと母親のことを思い出すせいか、得体の知れないわだかまりが胸につっかえていた。

母親を思い出す理由は分からない。

でも思い出す度に胸が締め付けられて、改めて思い直す。

もう、誰も大切な人を失いたくはない。

だから、誰も好きにならないようにしなきゃって。



「土生くん、この後も誰か女の子と会う?」

「んーん。今日は会わないよ。でももう帰らないと。店の手伝いしなきゃだし。」

そう言うと、彼女は少し寂しげな様子を見せながらも、

「そっか。じゃあまた連絡して。」

と言って去っていった。

皆そうだ。
付き合ってる子は皆、浅い付き合いしかしていない。
お互いにそれで満足しているし、誰も不満を漏らさない。

皆、土生が他にも関係を持つ女の子がいることを知った上で、関わり合っていた。


誰かを本気で好きになれば、その分居なくなってしまった時や、想いが叶わなかった時の反動は大きくなる。

だからもう、本気の恋はしない。
適当にやり過ごして、遊べたらそれで良い。


その方が楽だし。

それで良いんだ。




土生は家までの帰り道である川沿いの土手を歩く。

夕日が川面に反射して、キラキラと煌めく川。

涼しい風が吹き抜け、川面が揺れる。

その風に乗って、どこからか心地の良い音が聞こえてきた。

なんとなく寄り道をしたかった土生は、その音を辿って土手の斜面を下る。


音の正体は、誰かが吹いていた金色の楽器。

何の楽器かも、誰が吹いているのかも分からないけど、心にスッと響くような居心地の良い音だった。

誰だろう。

そっと近づいて、楽器を吹いていた人の正体が小林だったと気づく。

土生に気付いていない小林は額に汗を滲ませ、懸命に演奏していた。

夕日に照らされた、どこか儚いその横顔に、土生の胸が締め付けられる。

ふいに、土生に気づいた小林が演奏を止め、顔をこちらに向けた。

「土生くん?どうしたの?」

「あ、ごめん。素敵な音が聞こえたからつい。」

土生がそう言うと、小林は「チャラいな〜。」なんて笑った。

「本音だよ。」って言うと、照れながら「ありがとう。」って笑う小林。

その笑顔にまた、ギュッと胸が苦しい。
それを誤魔化すかのように、土生は話題を逸らした。

「あれ、テスト前だから吹奏楽部も部活無いんじゃなかったっけ?」

「あー、うん。そうなんだけど、1日でも休むと感覚鈍っちゃうからさ。」

「そっか。ゆいぽんは偉いね。俺は何にも頑張ってないのに。」

「いやいや。土生くんだって偉いよ。」

小林にそう言われ、土生はふいに今までの自分を思い出す。

何をやっても中途半端で、逃げ出してしまう自分が嫌いだった。
勉強だって、部活だって、恋愛だって…。

「俺なんて何にも。」

土生はそう言って微笑んで、小林から目線を逸らすように下を向く。

しかし、小林は間髪入れずに言葉を発した。

「俺なんて、って、そんなに自分卑下しちゃダメだよ。」

「…ゆいぽん…。」

「…って、私もそんな偉そうなこと言えないけど。でも、この数ヶ月間土生くんと一緒にいて分かったよ。土生くんは誰よりも頑張ってるって。」

そう言って小林は、優しい笑顔を向ける。

小林の言葉で、つっかえてた何かが流されていくような気がした。
同時に高鳴る胸の音。

土生は何も言わずに小林を見つめる。

西側から照らす夕陽が小林に影を落としていた。

儚くて、今にも消えてしまうんじゃないかってくらいどこか寂しげで…。

誰かが守ってあげないと、簡単に壊れてしまいそうな危うさを纏っていた。

誰が、小林を守ってあげられるのだろう。

それが自分であれば良いな、と思った瞬間に、土生の胸は再び締め付けられる。


なんなんだろ、この感情。

いや、なんとなくその感情の正体には自分でも気づき始めている。
でも、土生は認めるのが怖かった。


好きになったって、また傷つくだけだし。



「…土生くん?私の顔に何かついてる?」

「……ん?ああ!ごめん、何もついてないよ。見惚れてただけだよ。」

「もお、そういうのって誰にでも言うことじゃないからね?」

そう言って小林は困ったように笑う。

ああ、まただ。
また胸の奥がむず痒い。

認めざるを得ないほどに正直な胸の内。
でも、認めるのが怖い自分の心。

「なんか…辛そうに見えるけど大丈夫?」

小林が土生の顔を覗き込む。

ハッとすぐに現実に戻り、慌てて取り繕う。

「大丈夫、大丈夫。」

「ほんと?」

「うん。俺はいつだって元気だからね。」

「ならいいんだけど。」

「…じゃあ、俺は店の手伝いがあるからこの辺で。」

そう言って、逃げるように小林に背を向ける。

そこにそのまま居続ければ、認めなくちゃいけなくなる気がして。

土手の斜面を駆け上り、家路を急ぐ。

その日、土生の頭の片隅から小林が離れることはなかった。