始業式の夜


部活が終わって外に出ると、雨が降っていた。

傘は持っていなかった。
天気予報なんて、見てなかったし。

小林は呆れたように大きなため息をこぼした。

慣れないクラスで朝から喧嘩して、今日という1日は完全に"最悪な1日"だというのに、雨まで降られちゃ敵わない。

ドラマや漫画なら、こういう時に傘を持った"好きな人"がやってきて、傘に入れてくれたりするんだろうけど。

残念ながら、そんなことは現実では起きない。
そもそも、好きな人なんていないし。

父親はどうせ家にいないだろうし、迎えに来てもらうことも絶望的だ…。


小林は諦めて、雨が降り頻る夜の街を小走りで駆け抜けていく。
しばらくすると髪はビショビショになって、制服もグッショリ重たくなった。

ここまで濡れてしまえば、もはや走る意味は無い。
小林は走る速度を緩め、人々が行き交う大通りから、家までの近道になる小道へと入った。

一気に街灯と人通りが減り、静かな道を濡れながら歩く。


ふいに前の方から、ガラの悪そうな2人組の男達が歩いてくるのを見つけて、小林は目を伏せた。
関わらないように足早に通り過ぎようとする小林の腕を、男の1人が掴んだ。

嫌な予感がする。

「お姉ちゃん、びしょ濡れじゃん。大丈夫?」

下心丸出しの男が問いかける。

嫌な予感、的中。
今日はとことんついていないらしい。

「大丈夫です。ご心配なく。」

「あれ、よく見たら櫻高の子だし、可愛いじゃん。1人で何してんの?良かったらうち来る??」

ニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべ言い寄ってくる男に、小林は顔を引き攣らせた。

「ごめんなさい、そういうの無理なんで…。」

「なんでよ、いいじゃん。」

そう言って男は無理やり小林を引っ張り連れて行こうとする。

「やめてください!」

掴まれた腕を振り解こうとするが、男の力には敵わなかった。
ちょっとヤバいかも、と思い始めた時にはもう遅かった。

「抵抗すんなって。悪いようにはしねぇよ。ほら。」

「嫌だ…。誰か……。」

"助けて"の一言が出せなかった。

目には涙が溜まり、恐怖で脚は震える。


こんな時、大抵の場合助けは来ない。

皆見て見ぬフリをするだけだ。

あの時だって……。

ふいに過去を思い出し、言いようのない不安に襲われる。
味方なんていなくて、誰も助けになんて来てくれなかった。

そう…
現実は、漫画やドラマのようには行かないのだ。

タイミングよくヒーローが現れたりしない。

この世の中は思ったよりも、冷たいんだ。


もうダメだ。

小林は抵抗することを諦めた。


その時だった。

「嫌がってんじゃん。離してあげなよ。」

誰かが、男達に向かってそう声をかけた。

その人は傘をさしてて顔はよく見えない。
でも、まるで一筋の光が射したかのようだった。

ヒーローっていたんだ。
こんなことってあるんだ。

密かに憧れていて、でも起こるはずがないって諦めていたシチュエーションが、目の前で繰り広げられてる。

小林はこんな状況下で思わず感動してしまった。
暖かい世界もあるんだなって。


だが、

「うるせぇよ。誰だよテメェは。」

という言葉とともに、小林を掴んでない方の男がヒーローに殴りかかったことで、すぐに現実に引き戻される。

鈍い音が響くと同時に、傘は地面に落ちた。
ヒーローの顔は大きく右側にねじれ、体ごと右側にフラつく。


やめて…。

小林の叫びは声にはならなかった。

こんな時、どうすればいいんだろう。

戸惑う小林をよそに、ヒーローはすぐに顔を上げる。
その瞬間顔がはっきりと見えて、小林は驚きで目を見開いた。

「…え、嘘。渡邉理佐じゃん…。」

助けてくれたヒーローは、今朝の因縁の相手だった。


「あーあ。殴ったな。じゃあこれで、正当防衛が認められるってことだね。悪いけど、俺イライラしてるからさ…。」

そう言って理佐は男の1人を殴り返す。

重たそうなパンチによって、男は地面にころがる。
今度はもう1人の男が小林から手を離し、理佐に殴りかかった。

しかし、理佐はヒョイっと華麗にパンチをかわし、男の腹に鉄拳を食らわせると、立ち尽くす小林の腕を掴んだ。

「逃げるよ。」

理佐にそう言われ、引っ張られるがままに小林は走る。

小林の腕を掴んで走る理佐の後ろ姿に、胸はざわつく。
何なのこの感情。初めてだ。
心の奥がむず痒いような、そわそわするような…。

いや、きっとこれは全力で走っているせいだ。実際に息は切れ、脚だって今にも絡まって転けそうなのだから。

「待てや!」

後ろから男たちの怒声が響く。

「こっち入ろう!!」

ふいに、理佐に強く腕を引っ張られ、小林は薄暗い路地裏に引き寄せられる。

反動で、小林は理佐の胸の中にすっぽりとおさまってしまった。

「ちょっ、え、!?」

慌てて離れようとするも、

「静かに!」

「……っ!!」

理佐の手によって再び胸の中に引き戻された。

「いいから、このままで。アイツらに見つかるから動かないで。」

耳元で囁く理佐の声に、小林は小さく頷いた。
小林の心臓は余計に暴れ狂い、顔が紅潮していくのを感じる。

耳元では、理佐の心臓の音が一定のリズムを刻んでいた。

気まずい。

でも、男達の怒声と荒い足音が遠ざかるまで、胸の中で息を潜めるしかなくて。

その僅かな時間が異様に長く感じてしまう。

その間も、小林の心拍数と顔の温度は上昇し続ける。



「…………。」

「…っ、ごめん!!」

男達の足音が遠ざかったことを確認して、慌てて理佐から離れる。

その瞬間、2人の視線が交わった。

薄暗い街灯に照らされる整った顔立ち。濡れた髪の毛。
街灯も相まって、どことなく色気を醸し出す。

だけど少しだけ垂れた目に潜む寂しげな瞳が、まるで捨てられた子犬みたいで…

走り終えて時間が経つのに、小林の心臓の動きは激しさを増すばかりだ。

「あ、えっと…」

小林が言葉を発すると、理佐は何も言わずに目線を逸らした。

薄暗い空間は沈黙に包まれ、雨の降り頻る音だけが響く。

理佐の口元に血が滲んでるのを見つけた小林が、沈黙を破った。

「……怪我、大丈夫?ごめん、私のせいで…。」

「ん?ああ、これくらい何とも無い。あんたこそ大丈夫なの?怪我とかしてない?」

相変わらずぶっきらぼうな口調だけど、心配をしてくれるってことが意外でくすぐったくて、思わず目線を下に向けた。

「私は…おかげさまで何とも。」

「ならよかったよ。とりあえずここにいても危ないし、土生ん家がすぐそこにあるから、行くか。寒いだろうし…。」

そう言って、理佐はスタスタと歩き始めた。

小林は慌てて理佐の後ろについていく。

ほんの数百メートル歩いたところにあるカフェに、理佐が入っていった。

"cafe Zelkova"と書かれたオシャレな看板。
外観はレトロなアメリカンスタイル。

ドアを開けると、カランカラン、という音と共に、「いらっしゃいませ」というかけ声が響く。

カフェにいた数人の客が、びしょ濡れの小林と理佐を一斉に見る。
厨房から出てきた土生も、驚いた様子で

「何があったの!?」

と訊ねた。

エプロン姿の土生を見て、そういえば小池が『土生くんの家はカフェを経営してる』って言ってたな、と思い出す。


「なんか、小林が変な奴らに絡まれてたから助けた。まぁ、こんな夜遅くに1人で、しかも傘もささずに歩く奴も大概変だけど。」

そう言って理佐は近くの椅子に腰掛けた。

小林は理佐の言葉にイラっとして

「一言多いんだけど。」

と文句を垂れる。

やっぱりこの人めちゃくちゃ感じ悪い。

さっき、少しでもドキッとしてしまった自分に無性に腹が立ってしまう。


「ゆいぽん、落ち着くまでうちでゆっくりしてくといいよ。後で叔父さんに店任せたら、俺らで送ってくから。」

そう言って土生がホットコーヒーとタオルを2人に渡した。
ここの経営者はてっきり土生の父親だと思っていたが、叔父さんなのか、と一瞬疑問が浮かぶも、すぐに切り替える。

「そんな…いいのに。私1人で帰れるよ。」

小林が謙遜すると、間髪入れずに理佐が入り込む。

「馬鹿なの?さっきの奴らいるかもしれねぇんだから、送ってもらえよ。」

「ほんとに一言多いんだけど…。馬鹿って何よ、馬鹿って。もっと優しい言い方ないわけ?」

「あーもう!2人とも喧嘩しない!」

不穏な空気が漂い始めた2人の間に、すかさず土生が仲裁した。

「コーヒー飲んで、穏やかに待ってて。」

そう言って土生は、店の厨房へと戻っていく。

再び2人だけの気まずい時間が流れる。

「……まぁでも、助けてくれてありがと。結構怖かったから…来てくれて助かった。」

「ああ…。」

「……コーヒー、美味しいね。」

会話に困ってしまって、小林が苦し紛れの話題を出すと、理佐は顔を上げた。
それはもう、無邪気な笑顔を向けて。

「だろ?ここのコーヒーはほんと美味い。あと、何よりカレーが美味い。小さい頃からよく遊びに来てたんだ。」

そう語る理佐は、さっきまでの無愛想とは程遠くて、生き生きとしていた。
ちゃんと笑うんだって少し安心したりして。

「土生くんとは幼馴染なんだ?」

「うん。ずっと一緒だった。どっちが先にブラックコーヒー飲めるようになるか、勝負したりしてさ。」

「何それ。…どっちが勝ったの?」

「土生。俺は未だにミルクと砂糖を入れて飲んでる。」

そう言って理佐は、カップの中身を見せるように傾けた。
確かに、コーヒーはまろやかな茶色に変わってて、ブラックコーヒーの面影を失っていた。

「子どもだねぇ。」

小林が何気なく弄ると、

「うるさいな。大人の基準はブラックコーヒーだけじゃないだろ。」

なんて本気でムキになって言い返してきた。

そういうところが子どもなんだよ、と思ったのは心の中に留める。
少しだけ唇を尖らせて拗ねているのも、まるで耳を垂らし、尻尾まで丸まっている犬みたいで。
思わずクスッと笑みが溢れた。

「あ、何笑ってんだよ。馬鹿にしてんのか?」

「ううん。なんでもない。でも、そうやって笑ってる渡邉くんの方が好きだな、私は。」

ポロッと溢れ出た言葉に、小林は「あっ。」と口を押さえた。
真正面の理佐は、時が止まったかのように微塵も動かない。
心なしか、耳が赤くなってるようにも見えたけど、それはきっと自分も同じだ。

「…あ、いや、その、深い意味は無いからね?今朝はめちゃくちゃ嫌な奴だと思ってたけど、ちゃんと笑うんだなぁと思っただけで。」

「なんだよ嫌な奴って…。お互い様だろ。」

反論してくる理佐。

そして再び、沈黙の間が流れる。

困ったように目線を逸らし、コーヒーを飲む理佐。
小林も気まずくて、コーヒーを流し込んだ。


カフェに流れるBGMと観客たちの話し声だけが、2人の間をすり抜けていく。

未だに落ち着かない心臓の動きが何だか気になって、苦し紛れに小林が口を開いた。

「…あんなに走ったの久しぶりだから、疲れちゃったな…。渡邉くん、走るの速くて付いて行くの大変だった…。」

「…ああ。ごめん、必死すぎて小林のこと考えれてなかったかも…。」

そう言って理佐は鼻を擦った。

意外と素直なんだな、なんて思って、ふいに小池の言葉を思い出す。

"陸上部のエースだった"って、確か言ってた。だからあんなに速かったんだ。

「陸上やってるんだっけ?」

何気なくした質問に、理佐の目が揺れる。

少しの間を置いて、理佐は俯いて言った。

「……陸上は、やってないよ。」

急に変わった理佐の態度に、小林は違和感を覚えた。
触れてほしくない話題だったのだろうか。

「ごめん、変なこと聞いちゃったね。」

慌てて謝罪するが、気まずい空気感は変えられなかった。

再び、気まずい時間が続く。

そんな空気を緩和するかのようなタイミングで、土生がジャケットと傘を持って厨房から出てきた。

「ごめんごめん、お待たせ!行こっか。」

土生から傘を受け取り、小林はカフェを出る。

「あれ、理佐も一緒に送ってかないの?」

土生が問いかけると、理佐はまた無愛想に答える。

「俺はいいよ。元々コンビニ行く途中だったし。コンビニ行ってくる。小林のことよろしく…。」

「そっか。じゃあまた明日。」

「おう。」

そう言ってお互いに背を向けて歩き出した。

小林は後ろを振り向いて、理佐の後ろ姿を見る。

その後ろ姿は、何故だか孤独とか葛藤とか、そういう何かネガティブなものが纏われていたような気がした。

ふいに思い出す、理佐の目の奥に潜んでいた寂しげな瞳。
あの人も、何かを抱えて生きてるのかな…。


「…ゆいぽん、どうしたの?」

土生の声に、小林は一気に現実に引き戻される。

「ん、ああ、何でもない。」

「そっか。家、どの辺?」

「あっち。ここから10分くらいかな。」

「そんなに家近かったんだ。全然会わなかったよね!」

「うん。私も、近くにこんな良いカフェあるの知らなかった。」

「良いでしょ?うちのカフェ。叔父さんが必死に守り抜いてきたから。」

誇らしげにカフェのことを話す土生もまた、生き生きとしていた。

話しやすくて、心地良くて、ただのチャラい人って思っていた今朝の自分を憎んだ。

気付けば家に着いてて、私たちは「また明日」って言って別れた。


最悪な1日だと思っていた今日は、案外悪くなかったかもしれない。