小学生の頃通っていた陸上クラブが使っていた、市営の陸上競技場。
公式の試合でも使われるこの競技場は、練習する様々な人で溢れかえっていた。

理佐は半年ぶりに足を踏み入れる。

懐かしい匂い、掛け声、その全てが理佐の鼓動を早める。

それは心が躍っているのか、はたまた不安から来るものなのか、理佐には分からなかった。

そもそもここに来てしまった理由も、よく分からない。

「おっ、理佐来てくれたんだね〜!俺嬉しいよ!」

ジャージとランニングシューズを身に纏った土生は、理佐を抱きしめようとする。

「もぉー!鬱陶しいな!待ってる、って言われたら来るしか無いだろ…!」

理佐は纏わりつく土生を引き離し、荷物を置いた。

「…その格好、土生も走るの?」

「うん。俺も久しぶりに体動かしたくなっちゃってさ〜。」

「あっそ。」

理佐はやたらテンションの高い土生を置いて、ウォーミングアップを始める。

土生も理佐も、小学生の頃から陸上をしていた。背の高い2人は走り高跳び…ハイジャンの選手だった。

土生は中学で辞めてしまったが、理佐は高校でも続けていた。

あの事故での怪我があるまでは…。


ゆっくり、左足首の感触を確かめながら理佐は走る。

迷いは消えてないが、この場に来たら何かが変わるかもしれない、そんな期待を込めて。

うん、大丈夫。痛くない。


一通りウォーミングアップや動きづくりを終え、理佐と土生は高跳びのバーの前に立った。

「うわ〜、久しぶりだね〜!俺、1年以上ぶりだよね?」

そう言ってはしゃぐ土生は、ゆっくりと感覚を確かめるように助走をつける。

そして、地面を思いっきり蹴り上げ、背中からバーへと向かう。
綺麗な放物線を描いた土生の体はバーを優に飛び越え、マットに埋もれた。

もちろん、ブランクがあるからバーの高さは低いのだけど、さすがは小中と高跳びをやってきた経験者だ、と理佐も感心した。

「うわぁぁぁ、跳べちゃった!」

無邪気に喜ぶ土生に、理佐は昔のことを思い出す。

あの頃は純粋に跳ぶことが好きだったのになぁ。

どうしてこうなってしまったんだろ。


グルグルと頭の中で考えながら、理佐はバーの前に立った。

何度も何度も見た。
数メートル先にバーがあって、その後ろにデカいマットが敷いてある。
見慣れた光景。

の、はずなのに…。

いざ、その前に立つと脚の震えが止まらない。
心臓は激しく脈打ち、呼吸も早まる。

どうして。
少し前までは普通に跳べてただろ…?

行けよ。踏み出せよ。

そう言い聞かせるのに、体は言うことを聞かない。

一か八か、助走に踏み出してバーに向かって走ってみる。

しかし、聳え立つバーを目の前にした時、理佐の足は止まった。

「……ごめん、やっぱ無理だわ。」

理佐はポツリと呟き、バーに背を向ける。

思い出すのは何故か、あの頃憧れていたオリンピック選手が跳ぶ姿。
あんな風に高く跳んでみたくて、それが目標となり、夢になった。

そんな夢が、いつしか重荷にしかならなくなってしまったのは…

「…理佐。ゆっくりで良いよ。ゆっくり、感覚取り戻したら良い___ 」

「____俺はもう跳ばない。……跳べない。」

そう言い残し、理佐は土生にも背を向ける。



「理佐……。まっ__ 」

言いかけて、土生は言葉を詰まらせた。

理佐の後ろ姿は今にも崩れ落ちてしまいそうな、悲しみに満ち溢れていたから。

土生は何も言ってあげられなかった後悔を噛み締める。

どうしてあげればいい?

やっぱり無理に強要するべきではないのだろうか。
でも、跳ばなくなってから理佐は、明らかに変わってしまったのだ。

何に対しても無気力で、笑うことも少なくなって…。

ただただ、昔の理佐を取り戻して欲しいだけなんだ…。


______
_


翌日

小林はいつも通り朝練を済ませてから、教室へと向かう。


「おはようございます!」

新しく入ってきた吹奏楽部の後輩が挨拶をしてくれた。

確かあの子は、パーカッションの森田ひかるくん…。

「おはよう。」

小林が微笑み返すと、森田はそそくさとその場を去っていく。

忙しない子だな、なんて微笑ましく思いながら教室に入れば、クラスメイトからも「おはよう」が飛び交ってくる。

ああ、こんな光景、当たり前じゃない。

ふいに、3年前の教室の光景がフラッシュバックする。
誰もこちらを見ていない。
元々居ない存在かのように扱われるあの地獄。
二度と戻りたくない、思い出したくもない過去を振り払い、今ある光景を見た。

「おはよう」って返して、笑い合った瞬間、幸せだな、大切にしなきゃな、と再確認する。

…いつ奪われしまうかなんて、分からないのだから。

「ゆいぽん、優しい表情したと思ったら今度は難しそうな顔して、どうしたの?」

いつの間にか隣にいた土生に、顔を覗き込まれていた。

「ふぇっ!?」

驚きすぎて、どこから出たのか分からない声が漏れる。
すると、目の前の席に座る小池は大笑いだ。

「由依ちゃん、何今の声。おもろいなぁ。」

「みいちゃん、今のは…」

「驚いちゃったんだよね?ゆいぽんは可愛いなぁ。」

土生は涼しい顔で、まるで挨拶するかのようなテンションで"可愛い"と言う。

何でそういうことサラッと言うかな!?
私じゃなければ、勘違いしてるからね??

怒りと恥ずかしさが混ざった不思議な感情から、小林の意思に反して顔は赤くなる。
そもそも可愛いなんて、こっちは言われ慣れていない。

「ゆいぽん照れてるね、可愛いな〜ほんと。」

「照れてないから!土生くん、そういうのほんと良くないよ。」

「何で???」

何も理解して無さそうな土生。

「いや、もういい。」

小林は説明することを諦めた。


「あ、そうそう、あのさ、良かったらお昼、皆で一緒に食べない?」

土生は話を切り替え、小池と小林を誘う。

「ええ!いいの?食べたい!」

即答する小池。
小林に、選択権は無かった。

でもまぁ、みいちゃんが喜んでるからいいか。

「よし、決まり。」

土生は嬉しそうに笑った。

_____


昼休み

土生に連れてこられたのは屋上だった。

屋上の傍らに並べられた机と椅子。

そして、その横に置かれたベンチに寝そべっている理佐。

どうやら理佐はここでいつも、授業をサボってるらしい。

日差しに照らされてはいるが、風が心地よくて居心地は良さそうだ。

屋上は基本立ち入り禁止なのだけど、土生と理佐はいつもここに侵入しているらしい。

「バレないの?」

「1ヶ月前から使い始めたけど、今のところバレてないよ!俺たちの秘密基地なんだ。」

悪びれもなく笑う土生は、「早く早く!」と小池と小林を手招きする。

ベンチに寝そべる理佐は、2人の姿を見て眉をひそめた。

「あまりはしゃぐなよ。眠れないから。」

「いいじゃん!お前が喋んなくてつまらないから2人を連れてきたんだよ!ほら、皆で食べた方が美味しいから理佐も来いよ。」

「…俺はいい。ご自由にどうぞ。」

そう言って理佐は3人に背を向けて寝始めた。

「ま、理佐は置いといて、食べよ。」

土生は空気を変えるように、明るく振る舞った。


____
_



「でさ、そのドラマが面白くって!」

何でもない、たわいのない話をしながら弁当を食べる。

昨日のテレビの話とか、好きな芸能人の話とか。
意外と楽しくて、40分の昼休みは一瞬で終わりを告げる。

「理佐、予鈴鳴ったぞ。」

土生が理佐を揺らして起こすと、

「ん、サボる。眠い。」

とだけ言って、理佐は再び夢の中へ旅立ってしまった。

結局理佐だけを置いて、3人で教室に戻る。

この間、カフェで少しだけ垣間見えた生き生きとした理佐はもういなくて、無気力で無愛想な嫌な奴に戻ってしまっていた。

むしろ、この間よりも悪化したような…。

小林はそんな理佐のことを気にしつつ、触れてはいけない気がして、結局その日は何も聞けなかった。


でも数日後の雨の日、事件は起こった。