赤穂城 | お銀ちゃんの大日本漫遊記( v^-゜)♪

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※ブログ記事の内容は私達が訪れた時当時の内容となっています。
※ブログ記事は訪れた都道府県ごとにテーマ分けされています。

兵庫県の観光スポットのお話🏯



兵庫県赤穂にあるお城跡、
赤穂城🏯

江戸時代に赤穂藩(加里屋藩)の藩主が暮らしたお城🏯

別名・加里屋城、大鷹城と呼ばれます。

いわゆる赤穂事件(忠臣蔵のお話)で、播磨赤穂藩藩主浅野長矩が切腹に処せられたのが赤穂城🏯になるんですね。

赤穂城跡に隣接し、大石内蔵助赤穂義士四十七士を祀る神社、赤穂大石神社⛩️があります。

🔶赤穂大石神社のお話⛩️

赤穂城は、正保2年(1645)に常陸国笠間から入封した浅野長直が、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ,慶安元年(1648)より13年以上に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成したものです。

城郭の縄張りは近藤正純の指導のもと甲州流軍学によるもので、一部、二之丸枡形虎口付近は山鹿素行が設計変更したと伝えられています。

三代続いた浅野家ですが、刃傷事件により断絶し、その後は永井家、次いで森家の居城となりました。

明治の廃藩置県後、赤穂城は払い下げられ、屋敷地は民有地となりました。

城郭は国の史跡、本丸庭園と二之丸庭園は国の名勝、日本100名城、日本の歴史公園100選にも選定されているお城🏯


本丸門


1992~1996年にかけて復元された門。

この本丸門は長方形の内枡形を備え、一の門である櫓門と二の門である高麗門のふたつの門で構成されています


大手門


お堀の門。


厩口門


本丸にあった3つの門の1つで、森家の時代には台所門と呼ばれていました。

2001年に復元されました。


大手隅櫓


大手門や土塀とともに1955年に復元されました。


番所跡


現在は休憩所になっています。



本丸跡、本丸御殿跡


本丸御殿(表御殿・奥御殿)の間取りが地面に示されています。


天守台


一度も天守が築かれなかった、天守台。

築城当時のもので、1937年に石垣隅角部の崩壊箇所が修復され、さらに1985年には登り階段が修復整備されています。


1985年に出来た石階段。


登ると展望台になっており、城内を見渡せます❗


天守台に天守がいちども建ったことがないのですが、赤穂青年会議所により、2006年より、赤穂義士祭が行われる12月14日に先立つ数日にわたり天守台でライトアップを行なってきました。


光の天守閣(ライトアップ)

天守を模した足場を築き、電飾を配して夜間に点灯させています✨

年々、天守の高さが高くなっていましたが、2009年以降は5層となっています。

実際に天守閣はあった事がないので、想像というか、街おこしのイベントとしてなんでしょうねウインク


本丸庭園と本丸大池泉


国の名勝に指定されています。

大池泉は、表御殿南面に広がり、東西38m、南北26m、外周150mの広さで、二つの岬、三つの入江、中央に中島をもちます。


二の丸庭園


此方も国の名勝に指定されています。


二の丸庭園にある、浮玉堂。


二の丸門跡


二の丸の外堀が残っています。

江戸末期には国家老の森主税が暗殺された「文久事件」の場所にもなりました。



山鹿素行の銅像


軍学者である山鹿素行の像。

山鹿素行は、林羅山のもとで朱子学を学んだものの、のちに朱子学に疑問を持つようになり、新しい学問体系を研究するようになりました。

朱子学を批判したことから赤穂藩へお預けの身となり、そこで赤穂藩士の教育を行いました。

大石内蔵助も門弟のひとりでした。


清水門跡


清水門は別名を川口門とも呼ばれた門で、いわゆる『忠臣蔵』で知られる刃傷事件後の赤穂城明け渡しの際には、大石内蔵助がこの門から城を出たといわれています。

熊見川沿いに並んだ白い建物は、米蔵・薬煙場・番所。

米蔵のあった場所は現在、赤穂市立歴史博物館になっています。



お堀。


大石邸長屋門、近藤源八宅跡長屋門


代々浅野家に仕えた重臣大石家の屋敷跡。


大石頼母助屋敷門


大石頼母助は浅野時代、二の丸に唯一屋敷を構えていた家老。

屋敷の一角には謫居させられた山鹿素行が暮らしていたこともあります。

お隣には赤穂大石神社大石庭園もあり、見所満載な赤穂ですっニコニコ


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