ムッチーのブログ
  • 20May
    • 糖質制限

      アメリカでLOW CARBO DIETと呼ばれる糖質制限をお試し中。厳格にはなかなかできませんが、炭水化物や糖質の摂取量を制限します。血糖値の上下が抑えられるので疲れにくくなります。ムクミがある人にもいいみたい。体内の糖の代謝が徐々にかわって、筋肉等を消費するようになると体重が急に落ちるので、体力不足にならないように、かつタンパク質不足にならないように注意が必要です。アメリカからプロテイン・サプリを取り寄せてみました。高さ25センチくらいの大きな容器で来ました……。アスパルテームのような人工甘味料は個人的には好きではないですが、糖質摂取量を抑えるために、砂糖代替物を厳選して使用します。ラカントSエリスリトール(発酵させた糖アルコール)デザート系も、最近はカロリーコントロール、ゼロカロリー商品が増えてきたので、選択肢はあります。最近のお気に入りは「たらみ」さんのゼロカロリー・ゼリー。これはパイン味ですが、最近はイチゴ味も発売されました~

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    • ヘーゼルナッツ・コーヒー

      だいたい毎日コーヒーを飲んでいます。コストコで見つけたヘーゼルナッツ・バニラ・コーヒーがお気に入り。香りが好きです。名前の通り、ヘーゼルナッツとバニラの香り(香料だけですが)がします。

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  • 17May
    • セラピストなどクライアントのココロの相談にのられている方

      何か技術や知識を学んでクライアントの相談に乗り始めると、はじめのうちは「自分は人を癒すことができる」と感じる時期もあると思います。確かに、そのクライアントが来られた理由はあると思います。その方のために何か自分に出来ることがあるから、その方は来られたという側面はあります。セラピストとしての自信を失う必要はないです。そのクライアントのために必ず何か出来ることがある、またはそのクライアントからセラピストが学ぶことがあるはずです。他方、自信過剰になることは、セラピストとしてはとても危ないことだと思うのです。時には「自分はすごい」「他の人が知らないことを自分は知っている」とあからさまに書いている方もいらっしゃいます。そこが落とし穴なのだと思います。セラピストだって一人の人間です。感情的な問題も抱えているし、悩みだってします。まだまだ経験して、学んで、自分の表現をする機会が必要です。唯一、クライアントと違う可能性があるとすれば、自分の課題を横において、クライアントのために全力を尽くすことに慣れているという点だけなのではないでしょうか。別の見方をすれば、感情的に自分をきれいにすることが、ちょっとだけ上手なだけです。それも一時的にきれいにしているだけです。決してクライアントより上に立っているのではないです。謙虚さがなければ、人のための仕事はできません。最初のうちはうまく行くこともあるでしょうが、どこかの段階で自分の非力さを思い知ることがあると思います。そこで、歯をくいしばって全力を尽くす。これを繰り返していくと、実力がついていくのではないでしょうか。セラピストが挫折していないとすれば、そこには何か課題があると思います。当方のセラピーでも、クライアントから、ほかのセラピストと呼ばれる方に何を言われたかをお伺いすることがあります。時にはこちらがビックリするようなことを言われているケースさえあります。セラピストによってアプローチは違うことがあると思いますが、クライアントのプロセスを進める方向に行っているとは思えないことも意外と多いのです。これは、当方の自戒を込めて書いています。自分も数多くの(今考えれば)的外れなことをしてきて、クライアントの役に立たなかったことも少なくないと思います。しかし、特にココロの問題を取り扱う場合には、セラピストはクライアントのプロセスを進めるために全力を尽くすことが期待されていると思います。そのためにお金を頂戴している訳ですから。

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    • World Order

      家にテレビがないので、時代の流れにはついていけていないと思いますが、須藤元気さんのWORLD ORDERをようやく知りました。http://www.worldorder.jp/個人的には大好きです。もともとパントマイム、ブレイクダンス系が好きなこともあるかも知れませんが。秩序的なところがいいです。徹底的に練習して、完璧にパフォームするあたりもいいです。プロという感じがいいです。音楽は、もともとトランス系(それも時代錯誤的なユーロトランス系)が好きですが、フワフワのトランスに比較してもWorld Orderの曲は、結構グラウンディングしていると思います。

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  • 29Apr
    • ヒーリングについて

      次に、ヒーリングについて腰痛とか花粉症とか身体になんらかの症状が出ている場合、症状を改善させるために色々な選択肢があります。医学的診断に基づく投薬も一つの選択肢。エネルギー・ヒーリングも一つの選択肢。では、それらが目的としているものは何なのかと考えると、まずはその「症状を消すこと」だと思われます。症状が出ているのは、体の機能が故障しているようなもので、その故障を修理することで、症状を消せばいいということ。でも、本当に「故障」なんでしょうか?色々なケースがあるので、純粋に身体機能を酷使した結果の「故障」である場合もあるかもしれません。でも、別の見方もできると思っています。もし、この物理的に身体は、魂が地上で新しい表現をするために借りた「乗り物」だとすれば。つまり、魂にとっては表現をすることが目的なのですが、地上で表現するためには、声を出したり、手を動かしたり、歩いたり走ったり、他人の手を握ったりするこの「身体」が必要なのです。そこで、一時的にこの身体を借ります。でも、それが「故障」します。 でも「故障」?もともと地上で表現をする目的で借りているものであれば、それが故障したから表現ができなくなる仕組みって、何か変ですよね?人間の体や、自然界の動植物については、あれだけ完璧なものを創りだしておきながら(仮に神さまが創ったとしてます)、それが故障するように出来ているとは?地上での生命が永遠に続かないのは、人生の様々な段階を進んでいくために、必要なことかもしれません。若い時代、青年時代、中年時代、老年時代、それぞれで違った経験をすることで、幅広い経験が出来るようになるからです。また、借り物の肉体は時々リセットしていかないといけません。地上での存在は物質の濃度が高いので、それほど急に変化させることができないからです。肉体を酷使して、自分なりの表現を生み出していく時には、出産における「産みの苦しみ」が必要かもしれません。そのために負担をかけるために、この身体を借りているのでしょう。経年劣化はあると思いますから、それによる「故障」はあると思います。でも、故障が、魂の本来の目的である表現の障害になるというのは、本末転倒では?では、逆に、この肉体の「故障」は、魂の目的である表現をするために起きていると考えると?地上での表現において、自分の表現方法を探る段階では、産みの苦しみがあることが多いですから、怖かったり、自信がなかったりで、なかなか前に進むことができないこともあります。そこでは怒りや恐怖や悲しみなどの感情があっても、十分に表現できないで、体の中にため込んでしまうこともあります。肉体の「故障」は、これが表面化したものと捉えることができないでしょうか?つまり、ため込んだ感情があって、それを肉体は処理して排出しようとして、病気の症状として表していると。心臓に関連する異常は、自己表現であるハートに関連していることが多いと書いたことがあります。皮膚に出る症状は、体内から毒素を出そうとしているか、または、外界との不調和が原因。肝臓まわりに出る症状は、怒りの感情に関連していることが多い。肺まわりは、溜め込んだ悲しみの感情か、どの程度その人が地に足をついているかに関係していることが多い。腰痛は、恐怖や、自分が十分なサポートを受けていないという感情と関連していることがある。関節炎などは、自分の考え方が固定的になっていないか、見直してくださいという促しであることがある。乳がんは自己犠牲に関連していることが多い。などなど……。もしそうだとすれば、今目の前に出ている「症状を消す」ことは、魂の成長という観点からはいいことなのでしょうか?症状が一時的に消えたら、少し楽になるから、弱った心を奮い立たせ、自分の表現を探す旅を続けることが出来るという意味では、いいかも知れません。辛すぎる時に、ちょっと楽にすることは必要な時もあると思います。その意味では「急性」の対応としては、症状を緩和することがいいこともあると思います。でも、急性ではなくて、肉体がその人の魂に何かを気づいてもらいたくて出ている症状を消すことは、ひょっとしたら良くないことなのでは? と感じることは少なくありません。肉体が何かを気づかせようとしてその症状を出しているのであれば、その肉体の表現や自己浄化機能を否定することになりかねません。却って、表現を奪われた肉体は、それでも残ってしまっている感情のシコリを、別な形で出そうとするかもしれません。前に、人生で何をどのように表現するかについては、自由意思があると書きました。その意味では、肉体の表現である症状を消してしまうことで、その人の自由意思に干渉しているケースはないのでしょうか?なぜなら、相手の方の魂が借りている肉体が、その人が取り組むべき課題に関するヒントを出しているとすれば、その気づきのチャンスを奪っていることになるかもしれないからです。少なくとも、他人の症状を消す前には、その症状が何のために出てきているのかを、その方に意識してもらっておくことが、大切だと思います。その方の魂に対する敬意の表現として。これをいつも出来るとは限りませんが……。

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    • 自由意思について

      かつて、物事が必然か偶然かという議論がありました。ニューエイジ系では、すべては必然ということが言われています。何か辛い思いをしたとしても、それは必然だと。誰かに出会うことも必然。あるタイミングで死んだりすることも必然。個人的には「必然」という表現には抵抗を感じる時があります。必然だから自分でコントロールできない、受け身にならざるを得ないという風にとらえると、違和感あります。必然ということは、そこに何らかの意味があるはずだから、それを見つけて、消化してみようととらえるなら、違和感はありません。地上にいる理由が、自分にしかできない「表現」を見つけることだとすれば、それは「自分」という単位では自由であることを前提としています。自分にしかできないことを見つけるためには、自分が自由であることが必要だからです。つまり、自由意思があるということ。自由であるから、未開拓の地に足を踏み入れ、そこで新しい道をつくっていくことができるわけです。開拓するのは新しい道ですから、楽なことではないです。試行錯誤を繰り返し、絶え間ない努力を払い、失敗にめげず、一時の成功に有頂天にならず。自分の選択は自由ですから、その結果も自分に返っていきます。誰かのせいにすることは出来ません。自分が動かなければ、だれも動かしてくれません。でも、自由に表現をすることが出来る舞台なのです。もし、すべてが既に決まっていることだとすれば、既存の線路の上を走っていくようなもので、自分らしい表現はあまり出来ません。ただし、前に書いた小グループの単位で見れば、そこでのテーマってだいたい決まっている(というより、そのテーマに取り組もうとして自分はそこに参加することを選択しているという感じでしょうか)というのも正しいのです。歌舞伎の舞台の上でタップダンスができないのと同じように、まったく違った選択をすることは難しいです。不可能ではないでしょうが、上の論理で考えれば、目の前のテーマに取り組まないで、まったく別なことをやりだすのは、目の前のテーマから逃げている可能性が高いです。その意味では、「水滴」として経験しようとしていることは、だいたい決まっていると思ってよさそうです。その「経験」をどのように活かすか? は自由です。新しい経験をしても、それについて深く追及しない選択もできます。新しい人と出会った時に、その人どどの程度かかわるかは、自分が選択することができます。今後自分が進んでいきたい方向性は、基本的に自分が決めることができるのです。大きなテーマから、外れていない限り。それが大きなテーマの重要な一部である場合、そこでは完全な自由選択は出来ないはずです。なぜなら、歌舞伎の舞台をもともと選択しているのに、歌舞伎の基本的なルールを無視することはできませんから。これらをベースに最初の疑問に戻れば、すべては自由意思で決まっていると言えます。それは自分にしかできない自己表現をするために。しかし、一つの選択は、次の選択における自由を制限します。さらにその分野を深めていくために。つまり、すべては自由意志の結果であり、その意味ではすべては必然であると言えそうです。

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    • 死んだらどうなるか?

      1.人生は自己表現のためにある2.自分が表現したものは、自分のなかに残っている。3.自分が魂の故郷に帰る時、自分の経験を持ち帰る4.私たち魂の故郷には、すべてが保存されている5.魂は、魂の総体である状態から、自分自身を知るために分離していると書いてきましたが、このようなことを考えていても、実際に使いみちがなければ意味がありません。そこで、例を挙げて、どのようにアプローチできるかを書いてみようと思います。たとえば、「死」について。人が死んだ後にどうなるのか? の答えはわかりません。死んでみないとわからないことだと思います。臨死体験とか、転生とか、それが正しいのどうかもわかりません。でも、上に書いたことを仮定すれば、「死」についてひとつのとらえ方ができるように思います。つまり、「死」というのは通過点に過ぎないと。私たちが生を受けた一つの理由は、「海」から分離して「水の一滴」として地上に来て、そこで物理的な肉体をもっていないとできないような「表現」をすること。地上で手足を使ってモノを創りだすことも「表現」の一つ。他の人間や生物と物理レベルで関わることも「表現」。そこで、自分らしい表現をして、経験を持つことで、「海」に還った時に「海」を豊かにすることができます。ここで、地上にいる目的が、自分の中から何か新しい「表現」方法を見つけて、それを持ち帰って「海」を豊かにすることであれば……そのチャンスは一回だけだと考えるのは難しくないですか?私たちが一回「海」に戻った後、もう一度「水滴」になって、地上に来て、まだ違った表現を学ぶ機会があるのは、むしろ当然なような気がします。その時に、私たちの意識が同じものであるとは限りませんし、前に地上に来た時の記憶があるかどうかは分かりません。だから、必ずしも、いわゆる輪廻転生と呼ばれるものを肯定しているわけではないです。でも、否定もしません。なぜなら、一つのテーマを深めるためには、ある程度その分野に集中したほうが深めやすいだろうからです。会社でも、業務分掌があります。財務の人は財務を担当しています。営業の人は営業。総務の人は総務業務。ある程度集中することで、その分野について深く知り、深い表現が出来るようになります。だから、魂についても、「海」からいきなり「水滴」になるのではなく、一回、太平洋とか地中海とかに分かれて、さらに細かく分かれていくと考えるのが自然ではないかと思います。そしてその小グループのテーマがだいたい決まっていて、たとえば「自尊心」とか「恐怖心」とか、そのテーマについて深めていくのではないかと。テーマはそれぞれが独立している訳ではないので、小グループとしても色々なテーマを並行して取り組んでいるでしょう。「水滴」でいる間は、目の前のテーマに取り組むことが大切です。そこから目をそらさず。逃げないで。勇気をもって。

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  • 25Apr
    • 自分を知る

      4.私たち魂の故郷には、すべてが保存されているまで来ました。これから本題です。私たちの魂に刻み込まれた経験をすべて合わせると何になるか?人間の命というものの総体になると思います。色々な人が生まれて、人生を過ごして、そこで経験したものを持ち帰っていく。それによって、この総体は大きくなっていきます。これまでになかったものが、徐々に付け加えられていきます。なぜ、このようなことを考えているのでしょうか?ちょっと脱線して、たとえ話を。光は無色透明です。白色光というんですか。でも、プリズムを通すと、それが虹色に分かれます。実際は七色ではなく、無限連続的な色調なのでしょうが。透明な光しかない世界だと、すべてが透明です。すべてが均一。でも、そのような世界にいても、光はなんであるかを知ることは出来ません。そこで、光を分離していきます。プリズムを通してみるように。すると、色が生まれます。色が生まれると、透明な光は、自分のなかに青や赤や紫の色が隠れていたことに気付くわけです。これはスピリチュアル系の世界では、よく使われる例えかもしれません。上のポイントに戻ると、次の仮説です。5.魂は、魂の総体である状態から、自分自身を知るために分離しているここで「分離」と言っているのは、魂の一部が個人として地上に生を受けることを指しています。よくある例えでは、魂の総体 = 海個々の魂 = 水の一滴私たち一人一人の人間は、海から離れて、一滴の水になって、地上に生まれてくるという感じです。そこで経験を得て、自分の表現をして、他の水滴と触れ合ったり、離れたりしながら。そして、海に帰る時が来たら、自分が一滴の水である間に得たものを持って帰り、海の一部になります。

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    • 海に還るとき

      1.人生は自己表現のためにある2.自分が表現したものは、自分のなかに残っている。3.自分が魂の故郷に帰る時、自分の経験を持ち帰るここで、「表現」と「経験」という違う表現になっています。直感的にわかりやすいと思ったので、まず「経験」と書きました。でも、ちょっと考えてみると、どちらも同じだと思うのです。経験というのは、外界から働きかけられたり、外界に働きかけた結果、自分の中に生まれるもの。表現というのは、自分が外界に働きかけたもの。自分が創造したものです。でも、「表現」するためには、普通は相手が必要ですから、実は表現は他人の経験に重なってきます。一歩引いて、大きくとらえれば、私たち一人ひとりが「あの世」に持ち帰るものを全部ひっくるめると、自分の中に生まれるものも、自分が外界に働きかけたものも、その一部にすぎないことになります。ちょっと理屈っぽくなりました。結局、何が言いたいのか?「あの世」があるとすれば、そこには、これまで生きてきた人のすべてが保存されるということです。自分が感じたこと、自分が思ったこと、自分が受け取ったこと。それから、他人が感じたこと、思ったこと、受け取ったこと。その両方が保存されているということになります。そこで4.私たち魂の故郷には、すべてが保存されている

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  • 24Apr
    • 何のために生きているか? の続き

      何のために生きているか? の続きです。1.人生は自己表現のためにあると前に書きました。つまり、自分の人生経験を刻むことが大切ということになります。よく、自分が生きた証を残したいという話を聞きます。でも、物質的なものは永遠にはなかなか残りませんよね?モーツアルトくらいの天才なら別かもしれませんが。そこで、2.自分が表現したものは、自分のなかに残っている。年を重ねると、自分の人生を振り返って、懐かしく、楽しい時間を過ごすことができるようになります。あの時は楽しかった……。自分が未熟だった頃もあったけれど、振り返ってみると、自分の成長を感じることができる……。などなど。活動的な生活を過ごしていると、過去を振り返ったりすることは少ないかもしれませんね。若者は過去を滅多に振り返ったりしないのかも。でも、自分の経験は思い出すことは可能だと思います。子供の頃の思い出。学生の頃の出来事。自分が恥ずかしい思いをした時のこと。とても嬉しかった出来事。今まで出会ってきた人たちのこと。これらは、少なくとも自分の中には刻み込まれています。自分の魂があったという証として。これらは、他人が奪うことは出来ません。でも、自分が死んでしまったら、この証は消えてしまうのでしょうか?ここで、次の仮説です。3.自分が魂の故郷に帰る時、自分の経験を持ち帰る昔の表現で言えば、あの世にはお金を持って帰ることは出来ないのです。では、唯一、持って帰れるものは?自分の経験だと思います。経験については次で。

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  • 23Apr
    • 何のために生きているか?

      人生って何?私は何のために生きてるの?なぜ私はこのような経験をしなければならないの?人生って一回限りなの?死んだあと、私はどうなるの?良い人と悪い人は、なぜいるの?といった種類の疑問について。正しい答えは分かりません。ただ、私はこう思っています、というくらいの話しか書けません。でも、このように考えると、いろいろなことが理解しやすくなると思っていることです。長くなるので、何回かに分けて少しずつ書いてみたいと思います。1.人生は自己表現のためにある朝、目を覚まして、日中は自分がやるべきことをして、食事をとって、夜になったら寝る生活。これが繰り返されていきます。すると、10年や20年経った時、それまでの人生って何だったんだろうって思うかもしれません。でも、自分がこれまで経験してきたことは、自分しかそのすべてを経験していないというのは事実です。一見ありふれた生活のなかで、自分が何をして、何を選択して、何を成し遂げて、どのような人と出会って、どのように役に立ってきたか?自分とまったく同じ経験をしている人はいないのです。他の人がしていることを真似ているだけであれば、自分が生まれてきた理由はないはずです。その「他の人」だけいればいいのですから。自分がいる必要がなくなります。でも、自分はユニークな人生を歩んでいるのですから、自分の存在価値があるのです。その意味では、人生がユニークであれば、それだけ、自分が生きている理由が強くなってくるはずです。人類のなかでも、この人生を経験している人は私一人だけですから。世間の常識に従っていれば、生きるのは楽かもしれません。誰か他人が作ったルールに従っていれば、自分でルールを作り出さなくていいのですから。他人に期待される通りに動いていれば、自分で責任を取らなくてもいいので、一時的には「楽」かもしれません。しかし、私たち一人ひとりがユニークな経験をするためには、他人や世間の常識を追随していることは必ずしもいいこととは言えません。もちろん、世間のルールや他人の意見を無視していいということではありません。ルールというのはそのコミュニティが集団として生きていくために必要なものだからです。

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  • 22Apr
    • 直感(右脳)と合理性(左脳)のバランスをとる

      よく女性は直感に強く、男性は論理に強いと言われますが……。それらのバランスをとることが、人生を楽にしてくれる大きな要素だと思います。では、どうやったらいいのか?セラピーにいらっしゃる方によるあるのは、男性か女性かに係わらず、左脳の使い方で自らを苦しめてしまっているように見えるケースです。左脳=恐怖・疑い・決めつけもともと、左脳(知性・合理性のことを指します)の機能として、地上で何かを具現化する時にとても役に立つ反面、物事を考える時に批判的、論理的、価値判断をくだしがち、という特徴があると思います。別にも書いたことですが、左脳の機能をネガティブに表現すると、「恐怖」「疑い」「決め付け」となります。将来のことを批判的・論理的に考えようとしても、結局は将来で「確か」なことはありませんから、どうしても不安感が出てきます。つまり、うまくいかなかったらどうしよう、最悪の事態が起きるかもしれない、という恐怖が煽られます。また、他人に対しても、その人の言っていることが本当でなかったら、騙されていたら、相手の気が変わったら……、といった疑いも生まれてきます。これが信頼の欠如、疑いです。自分が正しい道を歩んでいると思っていても、それに対して、証明を求めたり、他の可能性を考えたりする面もあります。プロセスへの信頼の欠如です。でも、エネルギー的に言えば、何かに疑いや恐怖を抱いている時には、それに呼応するものを引き寄せてしまうことも少なくないです。もしスポーツの試合などで、うまくいかなかったらどうしようと常に考えていては、本来勝てるものも勝てなくなる状態に似ています。人間は見ているものに近寄ってしまうものですから、失敗するイメージを見つめていれば、失敗する可能性が高まるのは当然のことです。成功したイメージを抱き続けることが大切なのは、一般的に言われている通りです。さて、左脳の使い方に戻りますが、左脳の機能が「恐怖」「疑い」「決め付け」だとすれば、そのような使い方をしないほうが、プロセスは楽に進む可能性が高くなります。私見ですが、大雑把な表現をすれば、大きな方向性を決める時には、右脳・直感・勘・ハラで決めて、その方向性を具現化する時には左脳・論理・合理性を使っていくのが、よいバランスだと思っています。例えば、自分が今の仕事を辞めようかどうしようかと迷っているとします。左脳を使うと、仕事を辞めてしまったら収入がなくなってしまう、次の仕事が見つかるかどうかわからない、別の会社に行っても同じことが起きるかも知れない、自分は現実回避しているのかもしれない、自分が何かバカなことをしているのかも知れないと思う、などなどの疑いや恐怖が出てきます。でもその本当の答えは自分の中にあるのです。自分の本質的なところ、それをハイアーセルフと呼んでもいいですが、に答えを求めてみれば、辞めるべきか否かの答えは容易に見つかるはずです。瞑想をしてもよいですし、あるいはダウジングやタロットでもよいかも知れません。自分の本質的なところにコンタクトをとって、そこにあるものを「そのまま」受け入れることが大切だと思います。その答えを自分のハラにあててみて、「ハラに落ちる」、納得がいく・違和感がない、ならそれは多分正しい答えでしょう。もし確信がもてなかったら、自分の頭を一回止めてみて、それから聞いてみたらよいかも知れません。正しい答えを見つけたときには、これだ!という感覚があると思います。或いは、自分でも逆らいがたいほどの衝動があると思います。敢えて付け加えれば、本当に「正しい」選択をしたとしても、当初思った通りにいくかどうかは、その人のタイミングによる、ということはあります。つまり、人生には色々な経験を積むために生きるという側面もありますから、その時点では「これだ!」と思って実行しても、それが結果的に思った通りにはいかないということも少なくありません。しかし、それは必要な寄り道だったということで、もともとの直感が誤っていたということでは必ずしもないと思います。その寄り道の経験が後々に役に立つということです。若いうちの苦労は買ってでもしろ、という言われますが、その苦労を単に苦しい時期とするか、将来輝く自分への糧とするか、はその人が決められることです。左脳と右脳のバランスを山登りにたとえると、その山に登るかどうかは直感で決める、ではどのように登るか、登るときには何が必要なのかは左脳で決める、というのが適当だと思います。選択する時には、右脳の直感で決める。選択したものを実行に移す時には、左脳の論理で詰めていく。このバランスをとることが大切かと。左脳ばかり使っている人は、自分が左脳で大部分のことを考えているということに気付いていない場合も多いようです。これは私もその傾向が多分にあります。この場合、左脳を止めた瞑想などを行うことによって、自分の直感の感覚を高めることが出来ます。右脳を主に使っている人の場合、イメージ化していれば何でも実現すると感じているかも知れません。しかし、それが自分の魂の表現にかかわっていると、それは創造行為ですから、自分の手足を動かすことによって、また多少の障害を乗り越えることによって、自分の本質が表現される部分だと思うのです。ミケランジェロのような芸術家は、恐らく、まだ彫っていない石の塊を前にして、直感によって完成品の姿を見ていたに違いありません。彼にとってみれば、手足を使った作業は、原石から完成品を彫り出す作業だったと思います。しかし、彼はそれが出来る技術を左脳も使って着実に身につけたから、思ったとおりのものを彫り出すことが可能だったのだと思います。

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    • 指揮者による無為の為

      とても興味深いビデオを見ました。http://www.ted.com/talks/view/lang/ja//id/663アメリカのレナード・バーンシュタインという有名な指揮者(故人)の弟子だと思われるイタリアの指揮者が、指揮することについて解説しています。日本語の字幕もあるので、英語がわからなくても大丈夫です~著名な指揮者のビデオを見せながら、それぞれのスタイルの違いについて説明しています。楽しそうにタクトを振っている人。とてもコントロール的なスタイルの人。私の心を読むように演奏者に要求している人。演奏している曲の感情を体現して示している人。演奏者に自由に表現させて、それを称賛する人。演奏者が間違えた時の反応。そして、指揮せずに指揮をする人。最後のは、ある意味、究極のスタイルです。本当のリーダーシップの形だと思います。でも、この段階に達するためには、まずプロであることが必要です。このあたりについては、解説者は深く突っ込まなかったですが、演奏する側が、その指揮者に圧倒的な実力を認めなければ、いくら演奏者に任せても、指揮台の上で感情を体現しても、オーケストラは着いてきませんからね。まあ、もともとこのプレゼンテーションは、会社などのマネジメント向けに行われているようなので、マネジメントはすでにプロであることの厳しさをよく知っているはずなので、そこにはあまり触れなかったのかも。でも、大切だと思います。指揮者が実力を持っていることは。個人的には、このビデオを3回続けてみました。それから考えました。これから何を学べるのか?別の記事で、組織の活性化や、現場に対する権限委任について書いてますが、それを実際にやっている例の一つだろうとは思いました。プレゼンターの言葉です。[A conductor's] happiness does not come from only his own story and hisjoy of the music. The joy is about enabling other people's stories to beheard at the same time.”指揮者は、自分のストーリーを語ったり、自分が音楽を楽しんだりすることに歓びを感じるが、指揮者の本当の歓びは、それと同時に他の人にそれぞれのストーリーを語ってもらえるようにすることから生まれる。

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    • 今を生きるか過去を解放するか?

      何かの傷・トラウマなどで感情的ブロックが生まれている時、ヒーリングには基本的に二つのアプローチがあると思っています。どちらがよいのかは時々考えるところです。結局はケース・バイ・ケースでより適したほうを選んだらよいのかと思っていますが、それについて少しだけ。 両方のアプローチで恐らく共通しているのは、本来感情は体を通って出て行ってしまえばオワリであり、しかし通常それを充分に感じる・表現することが出来なかったために、感情的ブロックが体の中に残ってしまっており、それが現在の辛い経験の原因となっているということです。 解決策としては、その時に流すことが出来なかった涙や、表現することが出来なかった怒りや恐怖心を感じてしまえば、そのトラウマは解放されて現在の問題も解決すると考えています。 ここで、アプローチが異なってくるのですが、一つ目はその傷・トラウマが生まれた時点まで戻って、その時十分に表現することが出来なかった感情を 体を通すというものです。トラウマ・セラピー、退行療法、過去生療法、リバーシングなどをはじめ、大部分のセラピーもこの類かと思われます。 もう一つのアプローチは、その時点まで戻して再体験することはない、自分の波動を高めることによって、そのトラウマによる傷やブロックは自然と解 消される、とするものです。この種別に属するセラピーも少なくないと思いますが、禅、祈り、一部のレイキ、フラワーエッセンスなどは似た側面があると思っ ています。 ここで余談ですが、フラワーエッセンスは、そのもととなっている花と同調・チューニングしたら感じていただけると思いますが、基本的に波動を高め ることによって、その問題解決の障害となっているものを「流し出そう」とするものです。例えば、罪悪感に効くとされるエッセンスの花は、赦し・自己受容な どのエネルギーを持っているので、結果的に罪悪感の解消を促すという仕組みです。 さて、これら二つのアプローチの違いについて考えはじめたのは、イギリスでサイコセラピストと呼ばれる人々とあるワークショップで話をした時でした。率直に言って彼らには私を癒して欲しくない、と思ったのです。なんと言っても重過ぎる感じがして。 そこで一つ思ったのは、結局過去のトラウマを見つめることも大切だけれど、それは出来るだけ素早く通り抜けたらよいと。その後ジャーニーというセ ラピーを学んだ時には、感情の本質的なところに集中して、それを一挙に体内を流しきってしまうことで「無為」「ワンネス」に達することが出来るということ でした。 ですから、以降はセラピーでは、感情のドミノの出来るだけ元のところにあるのを最初に見つけてつかむようにしてます。 しかし、出来るだけ素早く通り抜けるだけでなくて、もともとそれにタッチしなくても、自分の波動をあげることによって癒しが起こることも実際にあります。 別の表現をすれば、これは「今の瞬間に生きる」ということでもあります。 本当に今の瞬間だけに生きることが出来れば、自分や世界に欠けているものはなく、過去のトラウマのエネルギーを今に持ってくることもなくなるので、問題は解決すると思います。光が大きくなれば闇は遠ざかっていくということですから。 この辺りについては、エックハルト・トールの「THE POWER OF NOW(邦訳、さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる)」に詳しいところかと思います。 しかし実際には、クライアントの方も私たちも、24時間365日今の瞬間だけに生きることはなかなか容易なことではないですものね。 その邪魔をしている過去のトラウマやそこでの学びを解放することで、過去に引きずられることが少なくなるのは事実でしょうから、それは完全に今を生きることが出来るようになるまでの暫定策としての意味は少なくともあると思います。

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    • 魔女狩り

      ちょっと古いものですが、「デッド・ゾーン」という米国TVシリーズをDVDで観てました。 これは、自動車事故で昏睡状態に陥った主人公が、6年後昏睡から醒めたら、物や人に触れることによって過去や近い将来のことが分かるようになったしまった……、という物語です。 行方不明者を探したり、近い将来の危機や事故を回避するために尽力していきます。同じようなテーマとしては「TRUE CALLING」(死体安置所に勤める主人公が死者に助けてくれと言われると、その一日を繰り返す)というのもありましたが、「デッド・ゾーン」はそれより透視能力者・残留思念に近い雰囲気で、より現実的(?)な感じです。 話の内容は別にして、あるストーリーで、魔女狩りのようなシーンが出てきました。予言を恐れる保守的な田舎町の住民から主人公が吊るしあげを受けるものです。恐れをなした一部の人の発言によって、集団となった人々が魔女を排除しようとします。マス・パニックです。 これを観て、自分の中からその人たちに対する強い怒りがわいてきました。腹が立って仕方ないのです。恨みに近いです。特にその旗振りをした人間に対して。 まあ、これをどう解釈するかは色々ありますが、これが過去生から来ているものだとしてもいいかも知れません。 では、私は今生でこれに関連するような経験をしてきたのか? これは今生、私が取り組む課題なのかどうか? 正直、あります。あからさまに吊るし上げを喰ったことはないですが、恐れなどから理不尽な行動をとって、人を煽動した人間に対しては、結構強く反発してしまいます。 状況にもよりますが、その時は私は自分は正しいと思っていますから、相手をつぶそうとしたり、相手を信頼できない存在だとしたり、あるいは、意味もなく過剰に反発してしまいます。 その怒り・裏切られた気持ち・理不尽なものに対するやり切れなさと恐怖、などは私のなかに未解決なものとして存在していると思うのです。そして、それをそのまま出すことは、これまた怖いことでした。 怒りのエネルギーは生きるエネルギーということに触れたことがありますが、それを本当にネガティブな方向に出してしまった時に自分ではコントロールが効かなくなってしまうのではないか……、という恐怖はつき物だと思います。 それをかつてワークを行った時には、怒りを外に発散するのではなくて、内側に向けて爆発させるということを学びました。体を使って出してしまってはガス抜きになってしまいます。そこで、内側で爆発させると、自分が火につつまれて燃えてしまいます。 そして、その向こうに見えるものは……。 何もないんです。無というか全てというか。 そこに達すると、それまで頭では理解できていた、相手が感じていた恐怖、自信のなさ、不安感が腹に落ちるようになります。 理不尽なものに対して、怒りで反応していたら、結局は同じレベルの争いになってしまいますから。自分がそこから一歩引いて、よ~く全体像を見てみたら、そこで自分が何を経験したかったのかがようやく見えてきます。そして、相手のことを受け容れることが出来るようになるのだと思います。 最近「デッド・ゾーン」のおかげで出てきたこのテーマ、私はまた新たに取り組む必要がありそうです。

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    • 自分が一番厄介

      クライアントを含めていろいろな方に提案をさせていただくことがあります。 その場合、こうされたらいかがでしょう? このように考えることもできるかも知れませんね。このような気持ちを想像出来たら、楽になるかも……。自分の気持ちに正直に……。自分をキレイにするためにこんなやり方もあります……。 でも、 一番難しいのは、自分自身なんです。 自分の生活や態度を見直してみると(って、自主的に見直したようなことを書いていますが、実は強制的に見直しをさせられたという感じかも知れません)、なんだよー、全然できてないじゃないの!!!! 他人にこうしたらって言うのは楽。 でも、自分で常にそれを実行するのは難しい。 だ・か・ら…… 日々の感情の流れのなかで、クライアントさんから持ち込まれる悩みのなかで、どこからともなく湧き上がってくる感情のなかで、謙虚になりたい そしてサポートを受け入れていきたい 怠けようと思ったら、どこまでも怠けることって出来ますからねー 生まれつきのナマケモノ

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    • どうしても希望が見えない時に……

      心理学者、VEフランクルの本に興味深い体験がありました。 1945年、南バイエルンの強制収容所の囚人であった頃、収容所から出て土木作業をしていた凍てつく朝。夕方になって作業班から帰って食べる熱いスープに半分に切ったジャガイモが一個入っているか、二個入っているかを考えた。状況は、展望がなく、希望もなく、ほとんど耐えられないと感じた。 そのような状況で、演壇の前に立って講演をしていると想像してみた。たとえば「一心理学者の強制収容所体験」というような題で。大きく、きれいで、明るい照明の、そしてなによりも暖房の良くきいたホールで講演している、聴衆は興味を持って耳を澄ましている、と。今この瞬間に実際に切り抜けなければならないこの現実について、その講演のなかで話をしている。このように状況を客観化してみた。 これでフランクルは絶望的な状況を切り抜けたそうです。 目標や希望が感じられないと生きる意志って湧いてきませんからね。気持のよい状況を想像してみて、それを強く念じることで魂の火がつくことはあると思います。 その状況を客観視してみることで、自分がその状況の泥沼から足を引き抜くことが出来ることを言っているのだと思います。 自分の肩の上に小さな自分をイメージして、そこから自分が置かれている状況を第三者的に見ることで、自分の感情と意志を切り離すことができますね。 人間の意志の力ってすごいものがあります。よくビジネス(起業)界で言われることですが、成功する意志を保ち続けることで、それが実現していきますからね。利己的な動機でなければ尚更でしょうし。 同時に執着していないことも大切かも知れません。どうしても欲しいものを毎日ビジュアリゼーションしていても、その画像からエネルギーを抜いておかないと、具現化しないという面もありますので。

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    • 自分の本質を取り戻すために

      親が厳しかったり、自尊心を失わせるようなことが続くと、自分の感情を抑圧して、最終的にはそれを抑圧していることさえ気づかなくなることがあります。 それを回復するために、抑圧の層を取り除いていくと、すごく自分勝手とも見える自由な状態になります。 小さな子どものように泣きたければ泣いて、怒りたければ怒って、甘えたければ甘えて……。 そして自分が欲しいものを正直に表現することを自分に許可するようになりますので、確かにちょっと自分勝手という感じもするかも知れませんが、もしそれが出来ないなら、すぐに諦める潔さも身につけることが出来れば理想的です。 周囲の人もあの人だから仕方ないなーという感じになりますし、それでも憎めないと感じてくれるようになります。 子供のころに絵を描いていて、ある時期からそれを止めてしまうと、大人になって再び絵を始めた時に、そのやめた頃の年齢の子供が描いたようなものしか書けないということがあるようです。 感情についてもそれは同じ側面があって、抑圧し始めた頃の子供のふるまいが一時的に出てしまうこともありますし、それはそれでヒーリングのプロセスが進んでいるという証拠にもなります。 その後に、注意を自分のニーズだけでなく、他人のニーズに向け始めると(それは人生経験を積んでいけば自然とそうなるはずのものですから)、自分のニーズをストレートに我がまま放題に出すのではなく、それを上回る自分の中のニーズ(他人に親切にしたい・共感したい・他人を愛したい・受け容れたい)が現れてきますので、自然と全体のバランスがとれるようになっていくと思います。 幸いなことに、抑圧を始めた時期の精神年齢、たとえば精神年齢7歳から今の年齢まで育つのに、年数と同じ時間は必要ではありません。一回ある程度の経験を重ねてきていますので、それはものすごいスピードで成長することになります。最大でもそれが10年なら12か月以上かかることはないと思います。 このプロセスについては、これまで部分的に書いたことがありますが、このような全体の概観をふと考えた瞬間がありましたので、ここでシェアしてみました♪

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    • サボリ癖

      最近改めて見直しているのがサボタージュと呼ばれる自己破壊プログラムの存在です。 ~したいと思っています ~を欲しいと思っているんですが という希望があって、そのための努力もしているのに、どうしても願いが実現しない…… こんな時に、それを何が邪魔しているのかを調べていくと、サボタージュが見つかるのです。 もちろん、自分の我欲だけを考えているものを願ってもそれは実現しなくても当然とも思いますが、これは別の話として。 サボタージュの根っこには、自分はその成功・実現に値する人間ではない、自分にはもったいないという価値観の刷り込みがあります。 まあ、普通はそれは親などから来ているもので、何かにつけて「この子はダメな子だ!」「お前に出来るはずがない」というメッセージを明示的・暗示的に受け取っていると、そのような自尊心の低さが生まれます。 暗示的な場合は、子供が何かをしようとしても先回りして準備してしまうとか、子供が独力で何かを完成させる努力をサポートして促すことをしない場合なども同じメッセージが伝わっていると思います。 最初から最後まで自分でやり遂げることによって、自信ってつきますからね! このサボタージュは表面的にはなかなか分かりにくいことも少なくないです。話をしている限りは、その人は本当の心の底から何かを望んでいるようにしか見えないんです。 でもエッセンスやレメディでも思ったほど進んでいない場合、そこに邪魔しているものがあることがわかります。 また、リーディング、筋反射テストなど使うことによっても、サボタージュの傾向の有無はわかると思います。 もしサボタージュが見つかったらどうすればよいか? ひとつはオーストラリア・ブッシュ・フラワーエッセンスのファイブ・コーナーズを飲み続けること。 だから、私が最近お渡しするエッセンスのコンビネーションにファイブ・コーナーズが結構入るようになってます。最初に障害をどけておいたほうがいいですものね♪ 他にも方法はありますが、今私が使えるなかで一番簡単な方法はファイブ・コーナーズです!

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    • ナンシー・シムズ

      ナンシー・シムズの詩だそうです 下手な訳でごめんなさい あなたの価値を他人と比べることで 低めてはなりません。 私たちが異なっているから それぞれがユニークなのです。 他人が大切だと考えることによって 自分の目標を設定しないようにしなさい。 あなたに何が最適なのかは あなたのみが知っていることなのです。 あなたが大切に思うものに 甘えないようにしなさい。 自分の命と同じように大切にしなさい。 それなしには人生は無意味なものとなるのですから。 過去や未来に生きることによって 自分の人生を指の間から漏らしてはなりません。 人生の一日一日を生きることで 人生のすべての日を生きることになるのですから。 まだ与えるものが残っているのに 諦めてはなりません。 努力をやめる瞬間まで 何事も終わりにはなりません。 自分が完ぺきではないことを 認めることを怖れてはなりません。 この脆い糸によって 私たちはお互いにつながっているのですから。 リスクに直面することを怖れてはなりません。 リスクをとることによって 私たちは勇気を学ぶのですから。 愛を見つけることが出来ないと言って 人生から愛を締め出してはなりません。 愛を受取る一番の近道は 愛を与えること。 愛を失う一番の近道は 愛に固執すること。 愛を保つ一番の方法は 愛に羽を与えること。 あなたの夢を捨ててはなりません。 夢がないことは望みのないことと同じ。 望みがないことは目的のないことと同じ。 人生を生き急いではなりません。 自分が今までいた場所ばかりか 自分がどこに向かっているのかを忘れてしまうほどに。 人生は競争ではないのです。 一歩一歩を味わうための旅なのですから。 ナンシー・シムズ

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