前回に続いて、まず、廣田さんが、『QUICK JAPAN 133』で語ったことについてです。
エビ中は、今回のツアーでは、「パフォーマンス」を上げようとしたけれど、エビ中らしさを失わせることになるんじゃないかと疑問を持っている。
松野さんがエビ中に入った後、彼女を見て、逆にパフォーマンスを上げようとする方針になったと思うけれど、
私は、「気持ち」を大切にする松野さんに象徴されるエビ中らしさを守るつもりだ。
そんな感じのことだと思います。
ちょっと、感動しました。
廣田さんの言葉をいくつか引用すれば、
「パフォーマンスの人はわんさかいるし、私は気持とか泥臭さがエビ中の好きな部分だし、そこを守りたかった」
「松野と一緒の8人の私立恵比寿中学じゃない方向に進む感がすごくて」
「今回のツアーから指導が厳しくなったんですね。…自分自身がツアーやっててどんどん無機質になっていくのを感じて…」
「松野がいてくれてのバランス、色があったなって」
「それでツアー最終日まで悩んだ結果、私らしさの決断として最後は愛を守ろうと思ったんですね。最後はその子だけを思ってぐらいの気持でやろうかなって」
「今後もどうするべきなんだろう、そこを折れって言われたら、最後ですって(笑)」
ツアー後のブログの言葉、「自分の中で大切なものを守れてよかったです」、の意味も分かりました。
廣田さんの決意は、柏木さんが、松野さんのように楽しそうにパフォーマンスできるようになる、と決意して宣言したこととも、共鳴しているように思います。
パフォーマンスのスキルアップは、ももクロも通った道です。
ももクロは、かつて、そのために、自然に溢れ出るものを失ったと思います。
でも、結局は、どちらでもなく、多くの人を相手にした総合的なエンターテイナーの道を歩んでいます。
エビ中がスキルアップに力を入れるのは、以前から徐々に行われてきた傾向だと思います。
廣田さんは、松野さんが転入した頃までは、エビ中には指導はなかったけれど、逆に、パフォーマンスのスキルアップの必要性を感じて、
柏木さんが入った後、ちょっとずつちゃんとしていった、的なニュアンスで語っています。
でも、廣田さんは、今回のツアーで、松野さんと結びつけて、スキルアップの方針に疑問を感じたようです。
私の正直な印象では、柏木さんが入った後も、溢れ出るものはどんどん増えたし、柏木さんは特に溢れ出ていました。
9人体制の時に、これが失われることを感じることはありませんでした。
でも、8人体制でのパフォーマンスがしっかりしてからの後、スキルアップする一方で、自然に溢れ出るものが失われつつあると感じていました。
このことは初めて書きましたが、あくまでも個人的な印象です。
でも、エビ中はももクロと違って、表現力がどんどんアップしたので、パフォーマンスの魅力が減っているとは、あまり感じずにすみました。
この問題は、星名さんが言ってるように、「ガッツリちゃんとやる曲とふざける曲の使い分け」、で片付く問題でしょうか?
あるいは、春ツアーは「エビクラシー」のパフォーマンスをしっかり見せるものだったけれど、ファミえんではいろんな形を見せたからそれで良い?
廣田さんの問題意識が、もしそれで良いなら、「最後です」とまで言う必要もないと思います。
この問題は、安本さんが悩んでいる、「本当の自分」か「大人」か、ということとも重なっていると思います。
「本当の自分」と「大人」を使い分けて解決できるなら、エビ中のコンセプト「永遠に中学生」は必要ありません。
廣田さんの言葉では、「気持ち」/「フォーマンス」の対立ですが、目指すべき答えは、決まっています。
どちらを選ぶかじゃなくて、両方を超えたところです。
廣田さんは、最初から答えを知っています。
例えば、以前のインタビューで、こう言ってます。
「教わってきたものを身に着けたいという気持ちもすごくあって、それはリハで試して念入りやって、本番は、もう覚えてない…」
「歌ってる時は、この中のもので走っちゃう」
スキルや形は身につけるけれど、本番ではそれを忘れて、自分の中のものに任せる。
これが正解です。
アゲアゲの曲でも、しっとり歌う曲でも同じでしょう。
以下、ちょっと抽象的になりますが、自分の興味に寄せて表現論的に書きます。
答えは、「開放した時に自然に生まれる表現」/「スキルによってコントロールされた表現」の二つを対立を超えたたところです。
「自然に生まれる表現」というのは、なかなか訓練してできるようになるものではないですが、エビ中はこれが自然に溢れ出る希有なグループだったと思っています。
「スキルによってコントロールされた表現」は、訓練によって「型」を身につけることですが、両方の表現が同時にできると、「型」を超えることができます。
エビ中メンバーは、パフォーマンスを楽しむことを大切にしています。
「型」のために自然な感情を抑えると楽しめませんが、「型」を超えた時には楽しめます。
「自然に生まれる表現」と「コントロールされた表現」の対立は、「私」/「作品」の対立でもありますが、
これは、自分自身が作品の本質そのものになりきった時には超えられます。
その時、作品の本質が、自分の中から自然に「型」を作りながらも、同時に「型破り」を行なおうとします。
すると、「型」の中にあってもなくても、それらの力が「型」をダイナミックなものにします。
実は、これは、「本当の自分」/「大人」の対立を超えたところとしての「永遠に中学生」と、似ている思います。
エビ中の場合は、「永遠に中学生」を掲げる以上、この道を目指す以外にないと思います。
だからこれは、パフォーマンスの問題である以前に、「アイドル観」の問題でしょう。
春ツアーでは、メンバーは泣くのを我慢して頑張る姿勢を見せようとしましたが、それは、悲しいという「気持ち」を封じることで、私が思う、エビ中の魂を失うことになりました。
廣田さんの転校発表でも、「気持ち」をまったく感じませんでした。
とっくにふっ切れているのかもしれませんが、廣田さんも、校長も、「気持ち」が出ることを恐れています。
廣田さんは、「最後まで自分の理想のアイドルでいたい」、「暗くしたくない」と言っていました。
笑顔でなくなることを恐れ、暗くなることを恐れ、本当の気持ちを表現できないというのは、私には、薄っぺらいアイドル観のように思えます。
瑞季が転校を語った時は、多分「アイドル」としてではなく、「人」として語ったと思います。
だから、彼女の語りに感動しました。
廣田さんは、以前の『QUICK JAPAN』で、「アイドルに慣れてしまって、悲しいのに笑顔を作ってしまうのは、人として悲しい」と言いました。
これは、廣田さんがアイドルを続けられなくなった理由の一つ、彼女の矛盾かもしれません。
エビ中メンバーが、本当に人を感動させる表現者として成長するためには、スキルを磨くよりも、アイドル観を成長させることが重要だと思います。