こっからがこのダブルアルバムの肝と言っていいと思う。Mr.Moraleサイドは…聴くのが辛い人がいっぱいいるだろうし、ケンドリックに対してネガティブな感情を持つ人も増えたはず。

でも、自分としてはむしろそれを恐れず「真実」を口にしてくれてケンドリックよくやった!と思う気持ちが非常に強い。以前に書いた通り、Tyler the Creatorもケンドリックを称賛する一人だ。

 

 

Big Steppersサイドは、真に迫るというよりはあれこれうーんと考えている様子で、ホイットニーへの言及や父親像を語った曲があるように、先般の記事でも書いたけど家庭的・家族的な側面が強かったように思う。最終的に女性の存在、特に婚約者のホイットニーがケンドリックにとって大切な存在であるという事が終着点のひとつになっていると思う。

 

今更アルバムジャケットに触れるが、ジャケットもこれまた家の中で、奥でホイットニーが下の子であるイーノック君におっぱいをあげている様子である一方、ケンドリックは長女のウジーちゃんを抱っこしつつも腰に銃を差しており、ウジーちゃんも怪訝な表情でこちらを見つめている。

なんでアルバムジャケットの話をしたかといえば、このジャケットがダブルアルバムとしての本作を如実に表している気がするからだ。Big Steppersサイドの「Worldwide Steppers」でも「娘とベイビー・シャークを一緒に見ながら、外のサメ(詐欺師)を見張っている」なんてラインがあったけど、見張るというよりサメを追い払っているのがMr.Moraleサイドなのかなぁと思う。

 

それにしてもケンドリックが「とぅーるるっとぅるー」と娘さんを抱っこしながら歌っている姿を見てみたい。

 

ジャケット的に言えば、Mr.Moraleサイドは腰から銃を抜いて銃口をこちらに向けるあるいは引き金を引いてしまうような内容になっている。これは「家庭を大事にする」と言ってしまえば聞こえはいいけど「俺と俺の家族に近づくな」「俺を放っておいてくれ」というどちらかといえばアグレッシブというかネガティブな感情を表しているのではなかろうか。それゆえに聴いてて良い気分にはならないというのがMr.Moraleサイドだ。

 

このまま話すと長くなりそうなので曲をおって話していきましょう。

 

 

1曲目の「Count me out」はまず冒頭で「この暗闇の中どちらへ行けばいいのかわからない。こいつらが決断を難しくさせるんだ」と歌われる。

ここ、Hoeという言葉が使われてるけど、女性を差してるわけじゃないよね多分。BitchもHoeも女性蔑視的な言葉として使用されてきたが、現在は特にBitchは単に女性を差す言葉として使われることも多いし、Trinaよろしく「強い女性」という意味として女性自ら自称する事も多いし、前回書いたように男性に対して「バカ」みたいな意味で使われる事も多い。なので「ビッチ」はもはやほぼ和製英語なんです…。

そんな中で本来のビッチの意味として使われるのがHoe(本来はWhore=娼婦という意味。ちなみにBitch=雌犬)なんだけど…これもどうやら性別問わない蔑称として使われることもあるみたいだ。実際日本語盤の対訳もそう訳されているし。

 

その後Eckhart Tolleの呼びかけがあって、更にホイットニーの「セッション10、ブレイクスルー」というアナウンスが入る。この曲は10曲目なので、セッション…ほう、セラピーだったのね、とここでわかるわけだ。果たしてブレイクスルー(突破口)とはどういう意味なんだろうか?「Father Time」「漢はセラピーなんぞ行かん」と言っていたのを改心した事なのか、それとも曲中で語られている事なのか。

 

 

タイトル及びフックは「俺を抜きにしてくれて嬉しいよ」と歌っていて、結論から言うとこれが「突破口」なのだろう。なのだろうけど…おぉ…と最初はたじろいでしまった。後の曲でも歌われているけど、Mr.Moraleサイドの大きなテーマの一つが「カルチャーとの決別」だ。それはおそらく我々から見てポジティブな要素もネガティブな要素もあると思う。「The Heart Pt5」についても最後に書くつもりなので、詳しくはおいおい。

 

ケンドリックが見つけた「突破口」「心の安寧」「楽園」「自分の世界」だった。

注意したいのは、今回のアルバムで彼は別にリスナーに「自分を一番大事にしろ」とメッセージを伝えているわけではない(と思う)こと。それゆえ以前の記事で紹介した批判記事の「行き過ぎた個人主義」とか「自己啓発の勧め」という話には違和感を覚えるのです。視点の違いなんじゃないかと思うけど、この作品は外に開かれたものではなく、あくまでケンドリック自身のセラピーと彼の心の中そのものという内に閉じたものだ。心の独白のようなものにメッセージ性を求めるのは間違いなんじゃなかろうか…?

そしてエックハルト・トールすら「セレブ御用達の奇妙な精神学者」扱いして、「ケンドリックには彼しか言えない言葉を期待してる」って…。

 

俺もわかってる風にしてる一人なのかもしれないけど、こういう人たちがケンドリックを「決別」に追い込んでしまったんだと思う。そう、彼は追い込まれていた。何度も言うけど彼は世界一のラッパーである。そんな彼がこういう状況に陥ったという事実を我々リスナーは深く受け止めるべきであって、彼に「期待」をするというのは間違っていると思うし、少なくともこのアルバムを聴いた後で俺にはそんな感情を抱けない。

 

ようやく曲に戻るけど、曲中では何度も「メチャクチャになって落ちていく」というコーラスが繰り返される。その中で彼がラップしているのは絶望や疲れだ。セラピーセッションを模したPVも、正直悲しい気持ちになる場面が多い。

 

砂漠の中独りだけ真っ赤な衣装を着て、ブラックパワー・サリュートのフィストアップをする群衆の前に立つケンドリック。そんな彼らの中から逃げようとしてもケンドリックを包囲して逃がそうとしない群衆。最終的に十字架に磔にされたようなポースで群衆に運ばれていき、横たえられるケンドリック。赤い衣装は血のメタファーなんだろうか。グラストンベリーのパフォーマンスが思い浮かぶ。そして、ラッパーにありがちな「死んだら崇められる」という状況を皮肉っているのかな。

 

他のシーンでは、仕事に忙殺されてたと思ったらいきなり飲み会になって笑顔を振りまくケンドリック(ここにカメオ出演してるのが元TwitterのCEOであるJack Dorseyというのは何か皮肉めいてる気もする)。フィアンセのホイットニーはキッチンで髪を振り乱して暴れたり、窓辺で途方に暮れていたりする。新型コロナ検査の様子や、エコー検査で妊娠中の赤ちゃんがマスクを外すシーンまであり、かなりシリアスなPVになっている。最後は天使が現れて彼の肩を抱くのが何やら希望を見出せそうで少し安心する。

 

この曲を聴いて思い出したのが「good kid mAAd city」収録の「Real」だ。

 

 

 

「Real」はアルバム最終盤の曲で、「本物である事」について考察を巡らせている曲だ。基本的には先述のような自己愛の大切さを示唆する歌詞になっているけど、その自己愛とは何ぞやという結論は出ないまま彼はラップを終える。そんな「Real」のアンサーがこの曲に含まれているのかなぁとも思った。

 

「Real」では「自分を愛せないのに愛が何だってんだ」というラインで1,2ヴァースを締めくくり、3rdヴァースは自己愛を持ったことで皆への普遍的な愛を得たものの、それゆえ憎しみも同時に持つことへの葛藤のようなものがラップされている。「みんなを愛している。みんなを嫌いになってしまうくらい」というのは、それこそ「Mortal Man」とか「Die Hard」で補足できるはず。

そんな中「Count me out」の1stヴァースの終わりでは「自分を愛せないのならば、自分を何百回も許してあげるんだ」と言っているように、「自分を愛する」という事から脱却したのかなぁ、と。それはつまり皆を愛すことからの脱却でもある…んじゃないのかと思うんですがどうでしょう…?現にこの曲では自分へ愛が向けられない状況を悲しむもしくはリスナーを責めるようなラインばかりだ。

 

そして「Real」ではケンドリックのラップが終わった後、留守電にて父親が「リアルというのは責任を負うことだ。家族を面倒を見る事だ。そして神の事だ。」とケンドリックに伝えてるんだけど、あー確かに今作はそれを実践してるなぁと思った。リスナーを責めるってのはむしろ無責任じゃないのか?と思ったりもするが、「何より自分を大事にする」「何で俺の事をわかってくれないんだ」と公言する事はある意味重い責任を負った言葉なのではなかろうか。彼のような世界一のラッパーが言うならなおの事責任重大だ。

 

ところで、曲中で「至らない点を悪魔のせいにする奴がいるけど、俺はエゴ・神のせいにする」とラップしてるが、エックハルト・トールの「エゴ」は一般的な言葉もしくは心理学用語のものとは意味が違うっぽい。

 

 

 

トールの言うエゴとは「形のあるもの」「無意識に同一化」しようとするものであるらしい。心理学…フロイトのいう「エゴ」はスーパーエゴ(良心、道徳)とイド(本能、衝動)の間で自身を保とうとするものである…との事なので、なんか全然違う。ただ、ユングのエゴ(自我)、セルフ(自己)の考え方とは似ている気がするから、トールの考えはユング的なのかな…?心理学の知識なさすぎるので今度勉強するかも。

それとも単にトールは「エゴ」を一般的に使われる「エゴイズム」「自分」という意味の単語として持ち出したうえで再定義しているのかな。となると彼は別に心理学者ではないのか。wikiにも「スピリチュアル・ティチャー、作家」と書いてあるし。訝しむのもわかるっちゃわかる気がするぞ。とはいえ、別に言ってること自体が怪しいわけではないから否定から入るのもなぁ…。

 

簡単に考えてみようとすると、要は「これが俺だ」だと思っているものは無意識のうちに実はみんなと同じようなものになろう!と集団意識に擦り寄ったものであって、それは間違った自分であり、本当の自分を見つけるには「エゴ」に気づく必要がある、と。

 

…なんか平沢進っぽい雰囲気もしてきたぞ。そう考えるとやっぱりユング的なのかなぁ。

 

 

「俺を抜きにしてくれて嬉しい」と言わえるとネガティブな印象があるけど、これは「エゴを取り去る」を言い換えた言葉と言っていいんじゃなかろうか?もちろん「Purple Hearts」でラップしてた「生まれながらのソーシャル・ディスタンス」と同じように物理的な意味もあるだろうけど、「誰も気軽に信用しない」という意味もあるとすれば「Count me out」も精神的な意味であっていいと思うのだが…。

 

そう考えると「決別」と書くのはリスナー目線の話でしかないので、やっぱり俺もわかった風に考えてた一人なのかもしれない。それでも正直、ケンドリックに「君たちは俺にひどい事をした」と言われて「ケンドリック、エゴから解放されてよかったね!」とは素直に思えないなぁ…。

 

でも忘れちゃいけない、このアルバムは彼のために存在している。繰り返しになるけど、こんな事言うアーティストなんてめったに居ないと思うし、ましてやケンドリックのような歴史的なアーティストが言うなんて過去にあっただろうか…?それゆえ、彼は覚悟を持ってこのアルバム、特にMr.Moraleサイドの曲たちを作ったんだと思うし、そこには何だかんだで彼なりの責任があったと思うし、オープンに彼の心の中をさらけ出してくれた事にはやっぱり自分は感謝したいと思う。

 

 

…1曲だけで長くしゃべりすぎた。