そんな中、オリンピック委員会は総勢11万人程度のボランティアを募集しています。今日はこのオリンピックボランティアについて思うところを話したいと思います。
オリンピック委員会は、国民のオリンピックへの参加を謳い、大規模な広告宣伝を打ち出してまで大量のボランティアを募集しています。ボランティアの説明会なども始まっているようですが、ボランティアの確保はあまり芳しくないようです。
先日は、文部科学省が大学に対して学生がボランティアに参加できるよう試験期間等の考慮を求めたことが話題になりましたよね。
このオリンピックボランティアですが、反対している方が多くいらっしゃる一方、当然肯定的な方も存在します。なぜこのような議論がおきるのでしょうか。
オリンピックボランティア肯定派の意見はつまるところ、オリンピックに関わる良い機会である、やりたい人だけが参加すればいいので募集自体を反対するのはお門違いである、といったところでしょうか。
他方で反対派は、やりがい搾取である、オリンピックに関わりたいのであればチケットを買えば良い、などなどです。
そもそもボランティアとは何かというと、一般的には社会への自発的な奉仕活動を意味しており、有償か無償かとは直接の関係はなさそうです。奉仕するからといって見返りを求めてはならないというわけでもないでしょうし。
現代社会では、労働の代価として賃金を受け取ることが大前提です。そもそも無償であれば誰も労働などしないでしょうから賃金を支払うわけですね。ただし、使用者と労働者の間のパワーバランスには格差があるので、労働諸法がその格差を埋めているわけですね。
労働基本法の原則から無償労働が認められるのかというと、無償であることを真に受け入れているのであれば違法ではないということになるでしょうか。通常の労使関係ではなかなかありえないでしょうが。
なので、通常のボランティアは、やりたければやればいいし、嫌なら帰っていいということになるのでしょうね。そういう自由意思が完全に保証されて始めて無償労働が成り立つのだと思います。
この点オリンピックボランティアはというと、、いろいろと縛りがありそうです。1日の従事時間や日数も指定されていますね。これでは無償労働の原則と齟齬しそうです。
また、やりがいを謳うことでボランティアへの従事を誘引することもフェアではないように思います。そういった面があることは分かりますが、ボランティアの人数を確保するために前面に押し出す話ではないでしょう。
さらに、学校がカリキュラムを変更してまでオリンピックボランティアへの参加を促すというのは、もはや強制力が働いているともいえ、言語道断でしょう。本来授業や試験を受けられるにもかかわらずその機会を喪失することになる学生への補償も気になります。
また、ボランティアの意味に立ち返ると、なぜ社会奉仕をするのかというと、それば必要だからです。つまり、奉仕してくれる人がいないと成り立たない事情があるのです。被災地ボランティアなどもそうでしょう。災害により困窮した人たちは真に奉仕を必要としているとういうのは、誰でも納得できるのではないてしょうか。
その一方で、オリンピックボランティアは真に必要なのでしょうか。現代のオリンピックには予算が、しかもそれなりに潤沢に、あります(あるらしい。)。スポンサーもいます。オリンピックの現場で働く人員が必要というのであればその分の予算をつければいいのではないでしょうか。努力を尽くした結果どうしても足りない分をボランティアとして募集する、というのであれば納得もいくでしょうが、オリンピック委員会のホームページのどこを探してもそんな話はありません(オリンピック委員会は予算の規模、具体的な使い方の詳細を公表していません。)。ボランティアを募集するために(必要以上の)広告宣伝費を予算に計上するのは本末転倒です。
このような状況では、数万人規模のボランティア募集が、やりがい搾取と非難されても仕方ないでしょう。これに対する真摯な対応としては、予算の詳細等の情報を開示して、必要性を論証することでしょうが、オリンピック委員会はそれをしようとはしません。
補足ですが、オリンピックに参加することで本来の仕事に従事しなくなることの、経済へのマイナスの影響も無視できないように思います。