042宮原家の系図探し 24-2.橘公忠が宮原公忠へ改名する

                        平成29年11月17日 宮原秀範

鎮宅霊符(八代市史第三巻―二九七~三〇〇頁より)

 

相良長毎が霊符を信仰したことについては、「求麻外史」につぎの記録がある。

「永正十一年(1514)宮原公忠に命じて霊符を刻せしむ。」(求麻外史八二頁)

霊符は「太上秘法鎮宅霊符」略して霊符といっている。「漢の孝文帝の信敬するところ」と伝え、わが国に伝来してからは、八代妙見宮執行神宮寺から版行したといわれる。


八代妙見宮

 

「霊符は鎮宅の方術七二道をあらわし、国家安全の符法」(国志一四九頁)であるから、八代代々の領主はこれを信敬して「除災与楽を得」(国志一四九頁)ようとつとめた。長毎が宮原公忠に霊符を刻せしめたのは、同様の信仰からであったと考えられる。宮原公忠の人物については、国志などにつぎのような伝えが記されている。

 

「宮原古城は、宮原町西南の田間にあり。宮原左衛門尉橘公忠在城す。」(八代古跡略記二一四頁)

「道後郷宮原村(里俗上宮原村)西南の田間に、宮原城迹あり。城主は相良家臣宮原左兵衛尉橘公忠。」(国志十一頁)

「代々相良家の臣として、宮原に在城す。」(国志十一頁)

「地志略にいらく、宮原城は道後郷宮原村にあり。宮原左兵衛佐橘公忠城代となる。相良家の臣なり。」(国志十一頁、陣迹誌)

これによると公忠は長毎の家臣で、宮原城主をつとめ、子孫も代々宮原に在城した。宮原城の城跡は明らかでないが、「宮原村にあり」というから山城らしく思われる。「村の西南の田の間にある」というのは、城下の館跡ではなかったろうか。また宮原の地名は三神宮の鎮座におこっているようであり、宮原氏はこの地名を氏としたもののようである。

 

「宮原公忠の墓は、宮原東南の山阿にあり。」(国志十三頁)

「公忠の墓は、當郡拵村の山阿にあり。」(八代古跡略記二一四頁)

「宮原公忠の墓は、宮原町の角、今村の北の迫、杉森の中にあり。石碑なし。墓上大楠ありて、土台の切り石残れり。宝永年中、石燈籠二基を寄進せり。」(国志十三頁 八代事跡考)

 

宮原村に公忠の城跡と墓があると伝え、江戸中期にはその墓に石燈籠を寄進するものがあるなど、公忠は宮原町では江戸期になっても地元の人々に尊敬されていた。ことに「黒俗の設に、近世にも清風朗月の夜など、甲冑せる老人、鴇毛(ときげ:淡紅色の毛色)の馬に騎り、このへんを徘徊するおみたることあり。これ公忠なりという。」(八代古跡略記二一五頁、国志十三頁)との土地の言い伝えや、「その他色々説あれども略止す。」(同書)とあるように、公忠はどこか道家的な面がつよく、神仏化された縹眇(ひょうびょう)とした伝承を多分にもっていることは、彼が仏教を信仰し、ことに霊符を信敬して神秘的な修法を行い、人々に畏敬されていたためであろう。

 

「城主公忠霊符を信じ、かつ佛道を修し、ここ(墓の所在地)にてつい入定せりという。」(国志十三頁)

「佛道を修してついに入定す。」(八代古跡略記二一四頁)

 

 公忠が霊符を信仰したということは、ゆうまでもなく彼の妙見信仰の一部をなすものである。当時八代城下に妙見宮があり、その門前町には天台宗・真言宗よりなる一五坊の供僧制をもち、八代における妙見菩薩の信仰の中心である。霊符は一五坊中の首坊神宮寺より版行していたものである。また宮原村の西方には三宮妙見宮が平安末より鎮座し、氷川山神蔵寺(天台宗)はじめ社僧六坊があって、八代郡北部の妙見信仰の一中心をなしていた。三宮とは「一の宮目深検校・二の宮手長次朗・三の宮早足三郎を祭る。」(八代古跡略記二一一頁)といい、また「一説には一の宮妙見、二の宮阿蘇・甲佐・八幡・賀茂・春日、三の宮立神六所権現」を祭神とする。前説では、三宮とは妙見の神徳・功徳の三つを人格化したものであるから、妙見宮を勧請したものであり、後説では諸神を合祀しても妙見神が一の宮にまつられているとうり、三宮妙見宮は宮地の妙見宮につぐ重要な末社であり、公忠がこの両社から霊符の信敬を学んだであろうことは、あやしむに足らない。

 最後に相良長毎が「公忠に命じて霊符を刻せし」めたことにふれなければならない。霊符は金版(木版に対していう。銅版である。)を公忠に命じて刻せしめたのは、金版がすでに年久しくて磨減したので、新しく版を彫らせたのであろう。このときも銅版であったろうが。そして長毎がそれほどに霊符を信仰し、相良氏の除災与楽・国家安全を希求していたこと、公忠が霊符の知識について、相良家中第一人者であり、長毎の信任をえて新版彫刻の奉行をつとめたのであろう。

霊符(宮原町郷土誌より)四十三頁

 

霊符とは霊験あるお札、護符のことであるが、ここでは宮地赤土山の霊符神社にまっらるる霊符のことである。くわしくは同社にかかげる霊符縁起(八代郡誌にもある)を見るべきであるが、霊符は妙見神とおなじ神であり、陰陽道からまつった神体である。「太上祕法の鎮宅霊符」と題し、中央に霊符神、蛇と亀とが相交わる台図をえがき、ふたりの童子を脇侍とし、その下に七十二の符をしるしているという。

妙見神というのは、北斗七星を神化したもので、仏道では妙見菩薩という。国土擁護・災害減除を誓願するほとけである。神道では国常立尊になぞらえている。

霊符信仰のおこりは、漢の孝文帝(BC180~157)の時というが、わが国へは推古天皇のみ代に、百済の敏整太子がつたえたことになっている。朝廷では桓武天皇がみやこを京都にうつされたのちに、はじめてこの法をおこなわれたという。北辰祭といって朝廷ご修法の一つとなった。

霊符というのは七十二道あって、鎮宅の方術・国家安全の符法という。わが国には七十二そろったのがなくなっていたが、

正平六年(1351)六月一日、古閖(?)村の橋のうえで霊符の金版と御免革の形をみつけ妙見社の神庫におさめていたが、公忠はこれを修理して、いまの霊符神社におさめたという。