043宮原家の系図探し 24-3.橘公忠が宮原公忠へ改名する

                        平成29年11月24日 宮原秀範

 

宮原公忠墓碑

出雲守公忠姓は橘、肥後国宮原の地頭たり、依て宮原を以て姓と為す。実に人皇三十代敏達天皇の後裔諸兄玄孫公久公に至る迄七代此地を治め徳化大に著る。然るに死後今に至る幾百年、墓碑殆んど敗滅に帰せんとするを以て、祖先追慕の念に堪へず。郷土史を語るもの遺憾なしとせず。生今般有志の賛助を得、墓石を改建し碑名を新にせんことを期し、大正八年三月一日起工、全四月竣工。依之永遠に氏の霊を祭り以て愛郷の念を厚からしむる事を得は、不肖の望之に過ぎざるなり。 

発起人    遠山治定 敬白

公忠十六代孫 人吉 宮原主一郎 (公忠十八代は間違いである)

下益城郡 当尾 宮原律雄


宮原出雲守橘公忠之墓(碑文)

宮原町大字宮原村字南段

 

月のあかるい晩には、かならず甲冑をつけた武者が月毛の馬にまたがって、ひつめの音も高らかに、かつかつと、馬の首に吊るした鈴をしゃんしゃん、しゃんしゃんと鳴らしながら、ホットゲの塘を西の方へ駆けてゆくのを見るそうです。

春夏秋冬の月のあかるい晩には、今でも見えると伝えられています。

上有佐のサツというところに奥方のお墓があるので、そちらに向かうのだろうと言われています。

橘公忠公は、敏達天皇(三十代)三世の孫、橘諸兄王(橘氏の始祖)の子孫です。

永正十一年(1514)、今からおよそ四七〇年前、橘公資が宮原城に居を構えてから公高、公次を経て公忠が「宮原」を正式の氏と称し相良氏に仕え、宮原四十余町の地頭(領主)となりました。

 当時の宮原城は、三宮社(現在の三神宮)の西南方の水田にありました、石垣や櫓の高い構えではなく、平地に堀や土堤を築き、竹や木を植えて戦いに備えた平城でした。

 公忠公は天法や兵道を修め、八代妙見の霊符(お守り札)を信仰し、神仏を敬い、神道仏道の教えを村人たちに広めたので、たいへん尊敬され慕われました。宮原氏の中興の祖と言われています。別の名を宮原左衛門尉公忠と言い、出雲守とも言いました、現在ではキンダタさんと愛称されています。

 人吉地方や八代、宇土地方で戦いが続き臨終のときの遺言により、入棺されるときでも甲冑のままだったと伝えられています。


一九八三年十一月

寄贈:緒方義弘氏 土地提供者:大塚圓治氏 宮原町教育委員会

 

※ホットウ寺

「仏堂を修し」というのは、どこのことかはっきりしないが、公忠の墓の北方、宮原小学校の東北隅に「ホットウジ」またホットウ寺のともという地名がある。公忠に関係があるのではあるまいか。