064宮原家の系図さがし

                                                                  平成30615日 宮原秀範

15世宮原公継の波乱万丈の生涯 ④

 

7.人吉病院(私立協議病院) 1874年(明治751日設立)38

公立人吉病院の建設

明治初期の医者、江戸時代には、藩庁に仕え、藩主かかえの医師や、民間の開業医師もあったのであり、この外民間医療としての薬草や迷信的な祈祷(きとう)も多く行われていた。幕末の文久3年(1863)肥前島原の蘭医(らんい)三宅莞斉は、事に関して幕府の忌憚(きたん)にふれて人吉に亡命し、岡幸兵衛方に寄寓(きぐう)して開業したが、慶応元年(1865)の丑歳騒動の折、人吉を放逐(ほうちく)された。おそらく洋式方と見られたためであろう。その後、幕末浪士で人吉藩御預けの谷地洋久という医師が、岡氏の斡旋で三宅氏が残した薬剤・医療器械で開業した。明治3年(1870)、各藩預け浪士の帰国が許され、三宅氏も帰国したが、人吉藩から追放されていた西道庵(初代院長)も人吉に帰国し、谷地氏の後を継いで紺屋町に開業した。

明治七年(1874)になり、宮原公継・相良淡海・山田秀信等の共同出資により人吉新町に病院を移して、初めて私立人吉病院とふした。

その後、明治十年(1877)五月三十日に西南戦争で焼失したので、臨時に大村の聖泉院を仮病舎にした。しかし、人吉は同年六月一日に官軍に占領されたので、焼失以前は賊軍の病院で、それ以後聖泉病院舎は官軍の病院となり、したがって医師もまた官軍に徴用されることになった。 十年戦争終了後、同年十月には西間に移転したが、このころ有志の間に公立病院設立の義が起こり、明治十一年(1878)五月二十七日、郡内小区長の集会で、人吉公立病院建設の件を可決し、同年六月六日、高田苗清が熊本県権令富岡敬明の許可を得て、七月四日、人吉舟場校で総代会を開き、内藤六一を会頭、米良重義を書記に選任して、病院建設の決議により、建設費は、郡内各村各戸三銭ずつ、及び篤志(とくし)家の寄附によることとし、設備品その他は郷備金及びその利子をあてることにし、場所を老神町(現総合病院)に設立することになった。病院の開院式は同年十月八日、熊本権令富岡敬明の臨席の上行われた。公立病院の設立は県下でも先駆的な設立であって、当時の有志の進歩的意図を示すものであった。

 

公継が懲役3年後に戻り、西道庵を中心に、宮原公継、相良淡海、山田秀信等の共同出資により設立された。(父悟からは、新町1番地自宅の土地の一部を寄付したと聞いて居ます。)

 

8.西南戦争1877(明治1033日結成~明治1064日降伏)41

西南戦争は、薩摩藩に寅助火事の時5000両の借金をして、薩摩藩に恩義が有り戦いました。

公継は、人吉2番隊(物資供給の長)で戦いました。長男の主一郎や宮原健之助の養子になった公継の子捨蔵(三男)は人吉1番隊で戦い戦士しています。

 

 

 

 

西南戦争は、明治10年(1877)1月29日~明治10年9月24日までつづき、官軍死者は6,403人、西郷軍死者は6,765人に及びました。

人吉隊は、3月3日に結成して、6月4日に降伏しています。

戦後の裁判で、人吉隊の隊長クラスは裁判で処罰され、各地方の刑務所へ送られています。

公継も2番隊の物資供給の長で同じように裁判をうけ、今回の刑は3年でしたが、無罪放免になりました。

その時の裁判資料が熊本図書館に有り、知人より頂いた資料を添付します。

九州臨時裁判所で、裁判にかけられた人吉隊の主な人は次の通りです。

(人吉市史の記載で一部矛盾する箇所も有りました)

 

岩手県監獄=小隊長 相良淡海(2年)・半隊長 加賀真三郎(2年)

千葉県監獄=参謀長 那須拙速(3年)獄死・輜重頭 宮原健吉(2年)出所後病死

蓑田太郎(2年)・相良休命(1年)・篠宮直次(1年)獄死

東京市ヶ谷監獄=参謀 犬童治成(3年)・副小隊長 丸尾 静(1年)

群馬県監獄=参謀 東九郎次(3年)

秋田県監獄=小隊長 相良頼寿(1年)獄死

山梨県監獄=監軍 滝川俊蔵(3年)獄死

熊本県監獄=豊永直(獄死)・豊永泰蔵(獄死)林田重(獄死)

長崎県監獄=桑原久(獄死)

大分県監獄=高橋水哉(獄死)

 

この後戦後復旧で、公継の自宅も焼け人吉町新町へ引っ越していきます。