063宮原家の系図さがし
平成30年6月8日 宮原秀範
第15世宮原公継の波乱万丈の生涯 ③
5.新宮簡暗殺未遂事件 1869年(明治2年11月7日)33歳
この事件の暗殺計画は、丑歳騒動の両者の感情の衝突であっただけに、怨み深く、主謀者新宮簡暗殺未遂事件となった。
(丑歳騒動は、簡がリーダーと成り、西洋流の同士を16人夜間に暗殺する)
これは、明治2年(1869)新宮簡が川﨑に遊ぶ由を調べて、木材町八丁掘差配人常右衛門の手代高座屋倉蔵が、六連発の短銃を懐にして、新宮を暗殺しようとして待受けたが、新宮の外出時刻が違い、待受中夜に入り、あやしまれて烏山藩の巡邏兵に取調べを受け、短銃を所持していたので取調べられ白状した。
倉蔵は、山田甚右衛門と親しく、新宮が甚右衛門の仇敵で有ると信じ彼を討ち果たそうとしたのであった。
それについて、倉蔵は、山田甚右衛門や吉村勇次、加賀慎三郎より頼まれた事を白状に及んだ。しかし事件は、山田、吉村等の贈賄によって曖昧に処理された。(話し合いで一応の解決はした)
しかし藩庁は、これでは正邪曲直(正しいことと、正しくないこと)がわからず、人吉藩の政道も相立たぬとして、明治三年(1870)3月25日付で犬童平兵衛・那須拙速連名で、新宮簡・菱刈昇宛に、事件の再吟味を願うよう申し送った。こうして同年4月18日、再吟味を弾正台に出願することになった。
その後7名が事件に関わっていた事が解り、宮原公継も取り調べを受け口上をのべている。尚7名の主某者は、山田甚右衛門・米良造酒・宮原浅右衛門(公継)・相良福真・高橋三左衛門・吉村勇次・加賀慎三郎
【 新宮簡(しんぐうたけま) 】
相良家第31代相良長寛の孫で、父相良義休の四男として生まれる。
新宮家には養子として婿入りし、新宮家の二女トシさんと結婚する。
はじめ行蔵と名のり後に竹間と改める。土手馬場 150石取り
藩校習教館で学ぶ又江戸の儒学者佐藤一斎の塾に学び、維新後は「人吉藩権大参事」となり西南戦争では官軍の参謀となって参戦、父子敵味方となって戦う。
西郷隆盛と同じ時代に生まれ(1827年)~明治11年(1878年)没51歳永国寺に眠る。
新宮簡は、人吉藩の家老で維新後は陸軍に出仕。西南戦争が始まると、政府軍の参謀を務めていました。しかし、息子の嘉善が人吉一番隊の小隊長だった関係で、屋敷は、西郷隆盛の宿舎となってしまいます。政府軍の指揮官として人吉に入った新宮簡は、城下を一望できる村山台地に砲を築くと、最初の2砲を我が屋敷めがけて撃ち込んだ・・・というから凄いですね。新宮家のように、人吉では父子、兄弟、甥と叔父が敵味方に分かれて戦うことになりました。
6.禁固刑で服役 1871年(明治4年)35歳
新宮竹間事件の処罰で3年の刑で服役する。人吉市史より記載
「江戸時代の刑務所とは」で、ネット検索したら、
※刑務所なんて生ぬるい?江戸時代の厳し~い刑罰の数々!
現代では罪を犯すと刑務所に入れられ、その罪を償うこととなります。しかし、江戸時代では実に幾つもの刑罰の種類があり、刑務所一択の現代とは大きく異なっていました。今回はその江戸時代の刑罰について解説していきます。
目次
1.江戸時代の刑罰とは?
2.江戸時代の厳しい刑罰:身分刑編
3.江戸時代の厳しい刑罰:追放刑編
4.江戸時代の厳しい刑罰:自由剥奪編
5.江戸時代の厳しい刑罰:身体編
6.江戸時代の厳しい刑罰:死刑編
7.江戸時代の刑罰についてのまとめ
1.江戸時代の刑罰とは?
現代でこそ、罪を犯した者には身分に関係なく刑務所に入り、その罪を償うと言うスタイルが通常ですが、江戸時代ではそうはいきませんでした。基本的に江戸時代の「悪事」の基準は、「人様に迷惑をかけない」と言う点では、現代とそう変わりはありません。しかし、その罪の「償い方」、つまり刑罰については天と地ほどの差がありました。下記にそれらについて詳しく記載していきます。
身分によって刑罰の差がある
江戸時代の刑罰の特徴的な点の1つとして、身分によって刑罰に差が出ると言うことです。一般的に、庶民、僧侶、武士、女性と言ったカテゴリーごとに、その受ける刑罰の種類も違ったわけです。よく時代劇の厳刑で「切腹」と言うものがありますが、実はこれを許されるのは武士のみだったりします。「切腹=自分を裁く事」と言うことになりますので、位の高い身分の者にしかそれは許されず、それより下の身分の者については同じ死罪であっても、磔(はりつけ)や獄門(ごくもん)のような、それは凄惨なものになるわけです。
刑の種類・厳しさも千差万別
犯した罪の内容によってその刑罰も変わります。例えば、現代でも江戸時代でも放火はかなりの重罪になります。放火をして捕まった場合には、罪人を焼き殺す「火罪(かざい)」が適用されます。「目には目を」と言ったところでしょうか?他にも、刺青を入れる刑罰や、追放と言った刑罰まで、本当に様々な種類がありました。
では、具体的にどのような種類の刑罰があったのか?下記にそれらについて解説していきます。
2.江戸時代の厳しい刑罰:身分刑編
まずは、地位や身分を剥奪する刑を紹介していきます。身体的には無事でも社会的には死亡するような刑の数々が揃っています。
改易(かいえき)
大名や武士に適用される刑罰で、その身分を剥奪すると言ったものです。つまり、大名や武士と言う位の階級から、庶民と言う階級に落とされるわけです。生活ランクを落としての生活が始まるので、豪華な生活に慣れていた身分の方、特に家族の方にとっては苦痛ですね。
退院(たいいん)
僧侶に適用される刑罰で、僧侶としての身分を剥奪されます。これに晒し者にされる罪が追加された「追院(ついいん)」や、宗旨・宗派からの追放を意味する「一宗構い」や「一派構い」などもあったようです。
奴(やっこ)
女性に適用される刑罰で、本籍を剥奪され、奴隷として下げ渡されます。吉原などに奉公される場合もあったようです。
非人手下(ひにんてか)
庶民にのみ適用された刑罰で、庶民より更に下の「非人」と言う身分に落とされると言った物です。乱暴に言ってしまえば「奴隷」と言ったところでしょうか?
3.江戸時代の厳しい刑罰:追放刑編
続いて、命を奪われる危険はありませんが、物理的に遠方に移される「追放刑」について解説します。基本的には追放後に監視などは付いていなかったようなので、その気になれば追放先から戻って来ることも可能と言えば可能だったように思えますが、現在よりも地域のコミュニティが密な時代でしたので、たとえこっそりと戻ったとしても、すぐにバレてしまいそうですね。
追放
文字通り、住んでいる場所からの追放です。「軽追放」、「中追放」、「重追放」と言った具合に、刑の重さによって追放の距離が違いました。
江戸払い
江戸に住んでいる者に適用される追放罪です。
遠島(えんとう)
俗に言う「島流し」のことです。この刑罰の行き先としては、奄美大島や伊豆七島、薩摩五島や天草などの離島が主だったようです。
4.江戸時代の厳しい刑罰:自由剥奪編
こちらも命を奪われると言ったことはありませんが、生活が少々不便になる…と言った具合の刑罰です。下記の刑罰に比べれば、遥かに軽い罪だと言う印象を受けますね。「預かり」以外は、ネットの普及している現代でこれを行っても、むしろ喜んでしまう人が多いかもしれません。
蟄居(ちっきょ)
公家や武士に適用されます。屋敷の門を閉じ一室に引き篭もると言った物です。本人以外の家族の外出は自由となっているので、ある意味「引きこもり」を推奨されているような物ですね。これを少し重くして、家の門を竹で塞ぎ、人の出入りを禁止した「閉門」や、夜間ならば罪人の外出が許される「逼塞(ひっそく)」と言う物もあります。
押込(おしこみ)
身分に関係なく適用され、期間内は外出が不可となる刑罰です。その期間は罪の重さに応じて、20日、30日、50日、100日と分けられます。
預かり(あずかり)
大名や親類、寺などに身柄が預けられる刑罰です。預けられ先で決まった日数奉公すると言うものです。これを重くした物に、「永預かり」、つまり「死ぬまで」そこにいなければならないと言った物もあります。
5.江戸時代の厳しい刑罰:身体編
ここからちょっと痛い系の、体に苦痛を与える刑罰となります。死罪よりはマシとは言え、あまり関わりたくない物が揃っています。
刺青(いれずみ)
主に窃盗犯などに適用される刑罰です。体に刺青を描かれ、これが3回適用されると死罪となります。消せない証しを体に刻まれるわけですので、一目で前科者とわかってしまいます。
敲(たたき)
鞭打ちの刑です。この刑罰は成人男性のみに適用されていたようです。罪の重さによって、打たれる回数も違ってきたようです。
過怠牢(かたいろう)
14歳以下の男性や女性に適用される刑罰で、入牢、つまり牢屋に入れられると言ったものです。現代で言う「刑務所に入る」と言うものですが、牢内の環境は現代とは衛生的、人道的にも雲泥の差がありましたので、かなりの肉体的、精神的苦痛があったと思われます。
6.江戸時代の厳しい刑罰:死刑編
このお裁きを受けたら最早諦めるしかない、死罪についてです。
切腹以外にも様々な種類が用意されています。この死罪については、当時の庶民に公開されていました。これが娯楽としてなのか、それとも処刑を見ることで自分を戒めるためだったのか?いつも大勢の見物人が見届けていたそうです。下記に紹介する物の他にも、「斬首」や「鋸挽(のこびき)」、「下手人」と言った死罪の種類があり、切腹や斬首、下手人以外の死罪では、死体は刀の試し切りの素材にされたりと、死んでからもなお、その体を弄ばれるようなことが多かったようです。
切腹(せっぷく)
江戸時代の処刑方法としては最も有名な物とされる、大名や武士などの身分の高い者に適用された刑罰です。短刀で自分の腹を刺し、その後解釈人が首を刎ねると言ったものです。その体面を重んじて、自分の罪を認め自らが裁くという意味がありました。
磔(はりつけ)
刑場で刑木に磔にされ、突き手が槍や鉾で二、三十回突き刺す死刑です。執行後もその死体はすぐには撤去されず、三日間晒されると言った、かなり怖い刑罰になっています。
火罪(かざい)
放火犯に適用される死罪です。馬で市中引き回しの後、刑場で刑木に磔にされます。その後、槍で突かれるのではなく、火あぶりで処刑されると言った、江戸時代でなくても、かなり惨い刑罰です。
これも磔同様に、死後三日間その遺体が晒されることになります。
獄門(ごくもん)
牢内で処刑が執行されます。一見普通の死罪ですが、問題はその後です。その後、その首は刑場で罪名を書いた木札と一緒に三日二夜、台木の上に晒されます。死人の尊厳も何もあったものではありません。どちらかと言えば、残された遺族や仲間への精神的なダメージの方が大きかったと思われます。
7.江戸時代の刑罰についてのまとめ
江戸時代の刑罰は、今回挙げた物の他にも、様々な刑罰の種類がありました。
中には連座(れんざ)と言って、罪を犯していなかったとしても、その罪人と同じカテゴリーに入っているだけで罰せられると言った場合もあったようです。一見、残酷や理不尽な物が多く、野蛮に見える部分も多々あります。しかしその刑罰の重さ故に、江戸時代は犯罪率が低かったとも言われています。
江戸時代と現代、罪を犯した場合の刑罰については、どちらの方が良いかと言った結論はここでは出せませんが、出来る事ならばそう言った犯罪には生涯関わらず、日々平穏に生きていきたいものです。
公継が3年間の刑を受けて服役したが、どんな生活をして暮らしたか、想像を絶します。
次回は、人吉病院~西南戦争を記載します。


