061宮原家の系図さがし

                                               平成30年5月25日 宮原秀範

15世宮原公継の波乱万丈の生涯 ①

1.はじめに

 宮原公継は、最後の相良家家臣で幕末から明治時代に活躍した宮原家第15世で有る。

父は、第14世の公鋭(用蔵・郡兵衛)で、母は、雨宮家より嫁がれた方です。

誕生は、天保733日生(1836年)~明治2839日没(1895)までの59歳で亡くなります。

幼少期は、節蔵でしたがのちに公継に名前を変えています。家を継ぐ為改名されたようです。

公継の人生は、波乱万丈で時代が大きく変わり、武士の身分から平民になっていく時代でした。

 

2.今から起こる以下の2件の事件がのちに、公継に大きなわざわいが起こる。

※寅助火事 1862年(文久2年)公継26

寅助火事(とらのすけかじ)人吉大火

安政2年(1855)、相良氏34代藩主相良長福は江戸からの帰国途中に発病。帰国後の12日病死。享年32歳。

長男・頼紹(武之進)が幼少のため、長福の弟:相良頼基が35代藩主となります。

 文久2年(1862)2月7日の正午頃、人吉城下・鍛冶屋町の鉄砲鍛冶職人・恒松寅助の家から出火。冬で空気が乾燥していた事と強風の為、城下町に燃え広がりました。やがて火は球磨川を越え人吉城へ延焼。相良藩ではかつてない大火となってしまいました。

人的被害は奇跡的に死者なし・負傷者名程度。

藩は復興の為に那須四方介・菊池七郎左衛門を営中普請奉行に任命。復興資金として一万五千両が必要と算出されます。そこで肥後の隣藩・細川藩に勘定奉行・犬童権左衛門が赴き、申し入れたが断られました。

 このため江戸に出府途上にあった家老・渋谷三郎左衛門が大阪・近江屋へ借金を申し入れ、一万両融資を取り付けます・・・・

 あと五千両を都合する為、犬童権左衛門は渋谷練助(渋谷礼)と薩摩藩へ。重役・桂久武は五千両の借金を承諾。さらに薩摩藩は琉球大平布10匹、畳表100枚の見舞いと大工などが多数派遣され、復興支援が手伝われます

火事を起こした恒松寅助は故意ではなかった為、失火料を課されたのみの寛大な処分で済んでいる。別説では薩摩へ逃れたが、鉄砲鍛冶という技術者である為に帰藩が許されたともいわれている。

 

焼失箇所

  相良家文書『消失調査書』に記された焼失箇所、及び人吉城内で被災を免れた箇所を以下に列記する。

 城内の焼失箇所

    武之進様御住所:1箇所 客屋続供長屋:1箇所 供長屋続長屋:1箇所 手廻長屋:1箇所

    武術稽古場:1箇所 能舞堂:1箇所 役人詰所:6箇所 土蔵:7棟 厩:2棟 納屋:9棟

    塩蔵:3棟 門:3箇所 番所:8箇所 砲術稽古場:2棟 家中侍屋敷:15軒 家中土蔵:10棟

    家中長屋:9軒 鉄砲稽古場:1箇所 鉄砲稽古場詰所:1箇所 社:5箇所 寺:2箇所 

    外曲輪:残らず

 

城外の焼失箇所

    高札:1箇所 球磨川大橋:35間6合(但し22間残) 客屋:1箇所 二日町具足打立所:3棟

    新馬場舟場御蔵米:1棟 新馬場舟場役人詰所:1箇所 本蔵:5棟 本蔵番所詰所:1箇所

    物産会所:2棟 土蔵:4棟 学校:1箇所 武術稽古場:1箇所 武術稽古場詰所:1箇所

    牢屋:1棟 家中侍屋敷:95軒 家中侍長屋:20軒 寺:11箇所 社:9箇所 社家:3軒

    修験道:3軒 堂:15宇 家中土蔵:14棟 郷侍百姓:86軒 納屋:2棟 庄屋許:1箇所

    米良主膳頭邸宅:1箇所 町屋:368軒 町屋本棟:2箇所 町屋脇本棟:2箇所 町屋明屋:21軒

    町屋小屋:275棟 町屋土蔵:73棟 鍛冶屋:14軒 火番家:5軒 釜屋:2つ 空家:4つ

    牛:1匹焼死 馬:3匹焼死 怪我人:ナシ

 

 城内の非焼失箇所

高御城御太鼓番所 御次間 中ノ御門 御米蔵 御小納蔵 御膳 御金蔵 西洋流大砲入蔵

漆蔵 代物蔵 大手櫓 水手御門 堀合御門 谷口舟場所

 

※丑歳騒動 1865年(慶応元年)公継29

 

丑歳騒動(うしのとしそうどう)は、幕末の慶応元年(1865年)に起こった騒動である。文久2年(1862年)に発生した大火「寅助火事」により武器が焼失し、また西洋式軍隊の導入の必要性を感じた藩は、松本了一郎を起用し軍制改革に乗り出した。

了一郎の一派は佐幕であり洋式派と呼ばれた。一方、江戸初期からの伝統である山鹿流軍制を守ろうとする家老らは勤王派であった。こうした軍制と政治の対立があったが、洋式派が優勢となりオランダ式軍制への改革が推進された。これに反発した勤王派は了一郎らを襲撃し洋式派16人を上意討ちにし、逆に勤王派が主導権を掌握した。(これを指揮したのが保守派の新宮竹間である)

 

その後、山鹿流、オランダ式とも廃止され薩摩藩よりイギリス式軍制が導入された。一連の騒動から藩内の改革が立ち後れ、明治維新では新政府軍に参加したものの目立った活躍はなかった。

 

この事件がきっかけでのちに新宮簡(たけま)の暗殺未遂事件へとつながって行く。