058(先祖ゆかりの地に行こう)南木神社

                            2018.4.6 宮原秀範

 

橘氏の大阪・奈良にゆかりの神社・お寺の紹介をします。

平成26年5月3日~5日の2泊3日の旅行でおとずれました。

5/4次は、大阪府南河内郡千早赤坂村に有る、南木神社を紹介します。

 

南木神社(千早赤阪村)

楠木正成公を祀る建水分神社の摂社

建水分神社の摂社です。南木神社(なぎじんじゃ)と読みます。
楠木正成公を祀ります。
延元2(1337)年後醍醐天皇が建水分神社境内に祀り、後村上天皇より「南木明神(なぎみょうじん)」の社号を賜りました。


場所】: 大阪府南河内郡千早赤阪村水分 357

 

 

 

 

【建水分神社】(Wikipediaより)

 

建水分神社(たけみくまりじんじゃ)は、大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分(すいぶん)にある神社である。通称水分神社(すいぶんじんじゃ)。水分大明神、上水分社(うえのすいぶんのやしろ)とも称する。式内社で、旧社格は府社。

古より金剛山鎮守として、また、楠木氏の氏神として崇敬された。

 

【祭神】

中殿に天御中主神、左殿に天水分神・罔象女神、右殿に国水分神・瀬織津姫神を祀る。このうち天御中主神以外は水神である。

 

【由緒】

社伝によれば、崇神天皇5年(紀元前92年)、諸国が飢饉となったとき、各地に溜池や溝を作ることが勧められたが、このときに金剛葛城の山麓に水分神が祀られたのに始まる。延喜式神名帳に「河内国石川郡 建水分神社」と記載されている。「上水分社」の呼称は、美具久留御魂神社(富田林市宮町)を下水分社と称するのに対応したものである。

元の鎮座地は現在地より北約100mの水越川のほとりにあったが、南北朝時代に兵火にかかり、荒廃した。このため建武元年(1334年)、後醍醐天皇の勅命を受けた楠木正成が、現在地に本殿、拝殿、鐘楼などを再建し遷座した。延元2年(1337年)4月27日、最高位である正一位の神階を授けられた。また延元5年/暦応3年(1340年)に正成の子の正行が建水分神社に奉納した扁額に「左衛門少尉」の自筆が記されている。

中世、織田信長軍の河内国攻略の際に社領を没収され一時衰退するが、豊臣秀吉が社領を寄進し、復旧された。

1873年(明治6年)の社格制定の際に付近18ヵ村の総鎮守産土神の故を以て郷社に列格した。1907年(明治40年)に神饌幣帛供進社に指定され、氏子地域内の17神社を合祀し、1913年(大正2年)に府社に昇格した。

 

 

 

【例祭】

4月25日:春祭

10月第三土曜日:秋祭

 

【摂末社】

摂社:南木神社(なぎじんじゃ)

祭神:楠木正成公(大楠公)

延元2年(1337年)4月創建。

末社:金峯神社(きんぶじんじゃ)

祭神:天照大御神

 

 

 

【楠公誕生地】

 

楠木正成(くすのき まさしげ)の誕生地。

南朝の英雄であり、千早赤阪村随一の有名人。

古典軍記「太平記」にてその名を轟かす忠臣。

楠木正成の銅像は、東京の皇居外苑にも設置されており、その佩刀「小竜景光」は山田浅右衛門の手を経て、明治天皇の佩刀となったとされる。

楠公誕生地には、楠公産湯の井戸が現存する他、道の駅 ちはやあかさか を始め、千早赤阪村立郷土資料館 や くすのきホール 等が設置されており、千早赤阪村における文化施設の集積地でもある。

 

【場所】大阪府南河内郡千早赤阪村水分266