26.藤野村藤崎家 ( 『桜島町郷土誌』より記載 )

                          平成29年12月15日宮原秀範

 

 前回につづいて、橘一族も公業(きみなり)より分かれた家がたくさん有ります。その一部の各家をご紹介致します。

 そのほかブログをご覧の方で、同じ橘一族をごぞんじの方は、紹介して下さい。

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麓横山の史料は、大正噴火で消滅したといわれる。

爆発時の火災で三分一が焼失した藤野の藤崎家に、若干の史料が残されているのでそれを基に叙述する。

「藤野・藤崎家文書について」は、五味克夫教授が『鹿大史学』第三二号で紹介している。

藤崎家系図は、藩の記録所へ提出中、元禄九年(1696)焼失、藤崎氏の手許に残した控により、新系図が藩から下付されている。

系図は「橘姓藤崎氏系図」として、「人王三十一代」敏達天皇に始まる。(敏達天皇は第三十代です)以下この系図を紹介する。

尚、前半公氏までは略系図とした。

 

橘姓

 藤崎氏系図 (公氏までは略系図)

 

藤崎氏系図によると、藤崎氏が桜島湯之村に、肥後国から移り住んだのは、藤崎氏を立てて三代目公頼の代である。公頼は正平十二年の生まれである。

公頼の子公紀は藤野村を領し、ここに移居した。公紀の子公賢は、『旧記雑録』後編巻三〇に記録がある「刑部九郎」である。

 

「元久公御譜中」

「正文在向島士藤崎正兵衛」

(花押)

宛行

向島西方内藤野村名

頭職事

刑部九郎

右以人、補任彼職者、云佛神事以下修理興行、

云御年貢井御公事等、任先例可令致其沙汰也、聊承知之無令違失、仍執達如件、

明徳四年六月廿六日  慶本

 

右の史料は、藤崎家に現存しない。公紀の代に藤野を領したというのであれば、その子公賢の代に領有権が公認されたことになる。

公賢のあと、景光・景安・景貞・頼親と続き、頼親病気のため景貞の弟景昌が家督を継いだ。景昌の子廣相のとき、関ケ原の戦いがおこっている。

 

関ケ原の戦いに敗れた義弘の桜島蟄居は廣相の家でありこの時植えられたと伝えられるのが下の楊梅の木である。

廣相のあと廣昌・公通・その弟廣歳・廣歳の子廣武と続いている。

廣武が生まれたのは承応元年(1653)秋十月である。その四カ月後、父廣歳は長患いの末、三十三歳で若死した。その後、藤崎家には不幸が続き、父方の三人の伯父、伯母、三人の兄姉と下人が死に、母子三人が残された。このため家運も衰え、先祖伝来の「高」はもちろん、土蔵・家まで売り払っている。廣武十一歳の夏、頼みとする母に先立たれ、姉は鹿児島の親類の養女に出され、本人は桜島郷横山村にある母方の親類に預けられた。伝来の家宝が行方知れずになったのは、この頃だという。廣武が横山村から、下人が留守番をする自宅に帰ったのは五年後、十六歳であったから、元服はすませていたろう。藤崎家再建の意気に燃えていたのだろうが、翌年には大病で倒れた。

 

この年、寛文八年(1668)隣の西道村と境論が起こった。この境論で、衰退し、若年で病身である藤崎正兵衛(廣武)の側は、一方的に西道村の主張で著しく不利な山の境界をおしつけられたのである。つぎは、境論の経緯である。

 

藤野村の内、鹿堀は正兵衛・藤野村百姓が仕立・管理してきた山である。ところが親が死に、正兵衛若輩の時、西道村と山境で争いが生じた。噯衆の裁定は、西道側に正兵衛の支配する松山と藤野村百姓の山を割りつけるもので、正兵衛は成長にともない、いよいよこの件を残念に思うようになっていった。それで、これまでも、度々口上書き出し異議を唱えてきたが、噯衆からの返答はなく、地頭の交代をきっかけに、貞享四年訴訟にふみ切った。

 

正兵衛(廣武)は貞享四年から、噯衆に口上書で申入れをしておいたが、らちがあかないので、越訴をすると申出たとのことであるが、桜島郷中で決着がつくよう、先の噯衆と今の噯衆に話したところ、内々で事がすむなら、どんな取り持もいたすべきにつき、双方の口上書を調べ、西道方の言い分を聞いたところ、西道の言い分にすじの通らないところがあるので、此節、先噯衆当噯衆納得の上、新しい境を引き渡した。その図面が上の略図である。(略図省略)

 

境論が決着した翌元禄三年、藩主光久は義弘の植えた楊梅の樹下に宴をはった。近戸実大明神の社を藤野に建立し、国史館で消失した、伝来の古系図写の清書を、国史館から与えられたのも(廣武)である。こうして、廣武(正兵衛)は藤崎氏再興をはたしたのである。以後廣満・親次・親房・廣門・廣貞・廣隆・廣と続く。十五歳で若死する親次を除いて、廣満・親房・廣門・廣貞の四代は所三役のひとつである横目役をつとめている。廣隆の代に普請見廻役になっている。次の廣の代で系図の記入は途切れている。その間、廣門の代に大守斉宣が、廣貞代には斉興と斉彬が立ち寄っている。

 

※※ 最近仕事が忙しくてなかなかブログの記載が出来ません、次は1ヶ月後に成ります ※※