041宮原家の系図探し 24-1.橘公忠が宮原公忠へ改名する

                        平成29年11月10日 宮原秀範

 

24.橘公忠が 宮原出雲守橘公忠へ改名

はじまり 宮原町郷土誌より記載

地名について

 

宮原町は、火の国・肥後の名、発祥の地である。太古は、火の邑・火の村と言い、その後「火の国」と称した。大和の時代から

肥伊(ひい)(ごう)(と呼び、後に「肥後」の名を称えた。(すい)(じん)天皇の命をうけた(たけ)緒組(おくみ)益城(ましき)のアサクマ(朝来名)の土グモを平げて、八代郡白髪山(しらかみやま)に至る時、日暮れ、暗夜大空に火が燃えて山に降った。天皇が、このことをお聞きになり、「火の国」と言え、と。これから「火の国」の名が出た。建緒組は火(肥)の君となった。その後(平安末期)火の村は宮原村へと改め、八代郡文化の中心として鎌倉・室町時代へ栄えに栄えた。尚、宮原町になった時期は現在不明であるが、宮原村が先にあったので橘氏が宮原を名乗ったのではないか?といわれている。

 

 ミヤノハルという地名は、三宮社にちなんで、約八百年前(1161)にできた。その前はヒノムラ(火ノ村)といっていた。

 

※(注記―橘公綱が肥後国球磨郡久米郷東方下分宮原とゆう地名に、永仁七年(1299年)に入部したので、その後(1500年頃)八代郷に相良氏家臣(地頭)として移動したので、火の村から肥後宮原村になったと思われる。)これは、私個人の考えである為、参考とする。

 

 

宮原公忠(みやはら きみただ)は、宮原城主公忠公として町民に敬愛されているが『求麻外史』永正十一年(1514)のところに「宮原公忠に命じて霊符を刻らしむ」とある。『宮原家系譜』によれば、敏達天皇三世の孫、諸兄王(もろえおう)が橘諸兄といった橘氏の子孫で、楠木氏なども同族である。橘公資(公氏ともいう)というひとから肥後宮原におり宮原氏といった。

公高・公次・公忠と相つたえ、公忠がはじめて相良氏につかえ、宮原四十余町の地頭となった。

宮原城というのは、後世の石がき、やぐらのあの城ではなく、中世の平地にある城は土豪やしきのことで、堀や土堤に竹や木をうえて要害にしたところである。相良氏のときになって、上土(あげつち)の岩崎主馬や下有佐エノキマチの小早川新七郎などとともに新らしく城主となったそのひとりである。公高の弟公繁(もりしげ)も分家して宮原氏を称したが、公忠は公高の直系で、宮原氏中興の祖といわれる。

 

宮原公忠の名について

ふつう宮原左ヱ門尉公忠といっているが系譜によれば出雲守または治部少輔となっており、子孫により改築された墓碑には宮原出雲守公忠之墓となっている。

しかし永正十四年六月九日の「相良氏老中契状案」(相良文書二九六)に「宮原治部大輔公忠」とあるのは信ずべきであろう。なお「筑前守」(公久)「縫殿允」(頼真)も相良文書の中にある。

公忠は「天法兵道を修めた人」で、相良長毎の命によって「霊符」の版をつくっている。『八代郡誌』には「公忠妙見霊符を信じ、天文年間霊符の板を奉納し、且つ仏堂を修し、甲冑を体したるまま遂に入定したりという」とある。