036 宮原家の系図探し
19.橘真材~橘広相
2017.10.6 宮原秀範
現在宮原家系図に記載された方々の略歴を紹介しています。
あまり詳しくは調査していませんので、何か情報が有りましたらご指導宜しくお願い致します。特に伊予橘の情報をお願いします。
【真材】まさもと 橘真材
生没年:
父:兵部大輔 橘嶋田麻呂
伯耆守従五位上
妻:
岑範
大監物安芸守 岑守
【峰範】みねのり 橘岑範
生没年:
父:伯耆守 橘真材
図書頭
従五位上阿波守
妻:
837年~890年 広相
【広相】ひろみ 橘広相
生没年:837年~-890年
父:阿波守 橘岑範
文章博士侍読
式部大輔
参議
【橘広相】
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
橘廣相 『前賢故実』より
橘 広相(たちばな の ひろみ、承和四年(837年) - 寛平二年五月十六日(890年六月十日))は、平安時代前期の公卿・学者。橘氏長者・阿波守橘峯範の次男。正四位上・参議。贈従三位・中納言。
(経歴)
橘氏の初代・諸兄の六代孫にあたり、父・峯範より橘氏長者を継承した。菅原是善に学び、陽成天皇、光孝天皇、宇多天皇の三代に仕え、近江守、美濃権守、東宮学士、民部少輔、文章博士、式部大輔、勘解由長官、左大弁を歴任したのち、正四位下、参議となる。仁和三年(887年)、宇多天皇が関白に任じようとしていた藤原基経が、広相の起草した勅答に「阿衡に任ず」との文字があり、阿衡とは位のみで職掌が無い官であると激怒し出仕を拒否する阿衡事件が起こる。翌仁和四年(888年)、長期化する政務の停滞に心痛した天皇が基経の主張を受け入れ広相の非を認めたことから、広相は責を問われて失脚することとなった。しかし、事件後に基経の娘が入内していることから、この事件は広相の娘・義子の産んだ皇子が即位し橘氏が天皇の外戚となることを警戒した藤原氏の陰謀によるものと云われる。
寛平二年(890年)五月十六日に卒去。同日従三位・中納言が追贈された。
(系譜)
- 父:橘峯範
- 母:藤原末永
- 妻:雄風王、博風王、雅風王または惟風王の娘
- 男子:橘公廉
- 男子:橘公材
- 男子:橘公頼(877-941)
- 生母不明
- 男子:橘公統(?-929)男子:橘公緒
- 男子:橘公胤
- 男子:橘公彦
- 女子:橘義子 - 宇多天皇女御
(関連項目) (脚注)
- 阿衡事件 『橘氏系図』(『群書類従』 巻第63所収)、『尊卑分脈』、いずれも『公卿補任』
- 神護寺鐘銘