016 「宮原左衛門尉公忠」伝
2017.6.2 宮原秀範
第12回
創 作
『宮原左衛門尉公忠』伝
第十二話(昭和三十二年八月五日)
十一、青龍刀
倭寇は鎌倉時代の末から、室町時代の終りまでに亘って行われた日本人の武力海外進出である。
最初は、九州沿岸の海賊が朝鮮(高麗)の沿岸を侵していたのであるが、その全盛期には500隻もの船団を組み、全朝鮮の穀倉や回米の輸送船を襲い、米、豆、奴婢を掠奪しこれらは再び商品となって、南支朝鮮日本に売られていた。元入れのいらぬ商売であったため、その利潤は「ぬれ手に粟」以上のものがあり武力、金力を自由に駆使して、其の勢力は山東半島より南支の温州、台州、明州、福建にまで及んだ。
この「海洋の帝国」を、討伐するために、朝鮮も明も共に、尨大な兵力と財力を使ったが、全て水泡に帰し万策尽きて、日本の幕府へしばしば鎮圧方を要請して来た。
この和寇対策に失敗した朝鮮王李氏は遂に滅亡し、明も財政的に失退するという大変革が生じた。
末期の和寇は、その大部分が、明国、朝鮮の民であったが、その首領は殆ど日本人の元武士で占められていた。
村山飛弾と唖の太喜、それに天草の「千江」の三人を捕えた船は塩浦(蔚山)を根拠にして東支那海を荒し廻っていた和寇の
一味であった。
王龍の船を生捕ったこの和寇の一隊は、よき獲物とばかりに、この船を曳航して根拠地の塩浦に引き揚げて帰った。
ところが意外にも、塩浦は朝鮮王の襲撃を受けて、上を下への大動乱が持上っていた。
塩浦には当時、萕浦(馬山)、釜山浦(釜山)を含めて、数万の日本人が居留していたが、その居留民の中に和寇を指導している者が居るという朝鮮官憲の圧迫が遂に爆発して、同者は兵端を開くに
至ったのであった。
予め、この事を計画していた朝鮮王は、一挙に三浦を包囲し、これをぜんめつするかに見えた。
この変事は直ちに、対島の和寇根拠地にもたらされ、全和寇の各船団は三浦救援のため、現地へ急行した。
この全和寇の総指揮に当っていたのは李青と名乗る
日本武士であった。
村山飛弾の一行が塩浦に帰港した時は、丁度、朝鮮王軍が全市を包囲し、火を放って、攻撃の真盛中であった。
船が港の中に入るや、一そうのジャンクが矢のように海上をすべって来て、船側に接舷した。すると一人の武装兵が駆け上って来て船長に一通の指令を手交した。
船長の顔が引きしまった。数名の伝令が駈け出した。
船首のドラがはげしく鳴り出した。
戦斗準備である。村山飛弾は、眼を凝らして、これらの動きをじっと見ていた。
統制ある指揮連絡、一糸乱れぬ部署、そして機敏なる行動。
彼は遥かに故国の戦城を想い浮かべた。(兵、馬、軍刀、弓、それらが各個に戦っている軍だった。集団戦斗の妙。そうだ、戦斗はこう行われなければならないのだ)だが飛弾が眼を見張るにはまだ早かった。
船長が、ごう然と火なわ銃を一発、打って前進の合図をするや、数せきに分乗した武装団が、一斉に海岸目がけて、発進した。
しかも、どの船にも、筒口が敵方に向って幾十となく並んでいた。
(これらの筒をどのように使おう云うのであろうか)
彼が思案していたその時、二名の兵がやって来て彼の袖を引いた。
「行け。あれに乗れ。」一人の兵が舟を指して命令した。「・・・」
もう一人の兵の云う事は全く分らなかったが、銃口を胸に向けた所を見ると(行かないと殺すぞ)と云う意味らしかった。
前の兵が、大きな袋を肩にのせて、前に押した。
飛弾は(もしや戦場に行けるのではないか)と内心よろこびつつも後の唖男に目くばせした。
飛弾の乗った舟は、前進部隊の相当後から、ゆっくりついて随地へ向って進んだ。彼等の舟は食糧の運搬船だった。
やがして、陸地にあがった部隊からはげしい銃声が一せいにこだまして、幾百条の煙が市街を覆うた。
飛弾の乗った舟は接岸するや、荷物を海岸にどんどん積み重ねた。
時々、すごいうなりを生じて、銃弾が彼らの頭上をかすめた。
朝鮮軍も火筒を使っているらしかった。
彼は何とかして、前線の戦斗の有様を見たかった。
その時、二人の連終兵が前線から下って来た。
「よい」と亦も腹をかかえて大笑いした。
飛弾は、大刀を青眼に構えて件の敵兵にじりじりとにじりよった。
「えエーいッ!」
烈ばくの気合と共に、飛弾の刀が宙に飛んだ。
「カチリ」だが、その一撃は訳もなく敵兵に受け止められた。
「しまった!」と思って身を引かんとしたその瞬間、敵の一刀が頭上に光った。
「ぎあッ!」狼のような悲鳴をあげて、例れたのは一刀を振りおろした敵であった。
唖男がはだみ離さず、日本からかくし持って来た、一尺の弓からはなたれた一矢が敵兵の眼球を射抜いたのであった。
飛弾はとっさに悟った。この青龍刀は、片手では重すぎて、敵の虚を日本刀のように、衝くことは出来ない、常に振り廻しつつその反動を利用しなければ、うまく使えない。とそうして彼の青龍刀が舞い、唖男の矢が飛び放たれた。
敵兵は友の死体を残して引退った。塩浦の街はまだアビキヨウカンの港だった。 つづく
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明言院境内の逆修牌、1546年宮原城々代、橘公忠がこの寺にこもり、法華経の一千巻を百遍も読破した記念に建てた逆修牌。