018 宮原家の系図さがし
2017.5.13 宮原秀範
1.系図の発見
ブログの最初に記載した事ですが、祖父が早くになくなった為、父に先祖代々の伝承が途絶えた為、宮原家の事が何も分からないまま私は、育ちました。
ただ、父から「世が世なら殿様の出で有る」とよく聞いていました。
八代の宮原町の城主で、戦いに敗れ相良のお殿様を頼り客人として迎え入れられたようです。それと元は、海賊の大将で楠木正成も一族の一人と言っていました。
50歳になり、父が言っていた先祖のことが気になり、ただこれだけの情報で、無くなった系図さがしの旅が始まりました。
最初に、何処から探したらいいのか迷いましたが、パソコンで宮原町(現在は氷川町)の事を検索すると、キンタダさんの民話を見つけました。
キンダタさん
宮原出雲守公忠公の墓・宮原町今室山
宮原小学校運動場の上 (宮原町)
月の明るい晩になると、必ず甲冑をつけた武者が、月毛の馬にまたがり、ひずめの音も高らかにカツカツと、馬首に吊るした鈴の音をシャンシャン、シャンシャンと鳴らしながら、ホットゲ(宮原小学校、宮原公忠公墓地)の塘を西の方へかけていくのを見るという。
春夏秋冬の月の明るい晩には、今でも見るという。上有佐のサッツに、奥方の墓があるので、そちらに向かうのであろうと言う。
永正11年(1515年)に宮原40余町の地頭であったミヤハラ・キミタダはミヤハラ城主公忠公として、町民に敬愛されてきた。別名橘(たちばな)のキンタダともいわれている。
天法兵道を修め、遺言には、「甲冑を体したるまま。」とあり、そのとおり入定したという。
この記事を見つけて、興奮しました。何故ならば家の家紋は、丸に橘です。それに宮原町の城主と父に聞かされていました。そこで思い切って人吉の墓参り(公継と教会)の帰りに、宮原町の公忠の墓や奥方の墓それと父が言っていた(三神宮に系図がある)三神宮に行き神主様に、家の事情と壺に書いた名前に公と言う方が多いことをお話しすると、「ちょっと待ちなさい」と言われ、宮原町郷土誌をもって来られました。そこには宮原家の系図が有りました。その中には壺に書かれた方の名前も有り大変驚きました。とりあえずコピーを頂きお礼をいって自宅へ戻りました。
今回の里帰りは大きな収穫でした。ただ系図には第14世の公敏までしかなく、戸籍(除籍謄本)には明治の初期の第15世の公継までしかわかっていませんでした。
この系図が私の家の系図で有る事は、まだ不明のままでした。
宮原出雲守橘公忠之墓
石碑の内容
月の明るい晩には、かならず甲冑をつけた武者が月毛の馬にまたがって、ひずめの音も高らかに、かつかつ、馬の首に吊るした鈴をしゃんしゃん しゃんしゃんと鳴らしながら、ホットゲの塘を西の方へ駆けてゆくのを見るそうです。
春夏秋冬の月の明るい晩には、今でも見えると伝えられています。
上有佐のサツというところに奥方のお墓があるので、そちらに向かうのだろうと言われています。
橘公忠は、敏達天皇(30代)三世の孫橘諸兄王(橘氏の始祖)の子孫です。
永正11年(1514、今からおよそ470年前)橘公資が宮原城に居を構えてから公高、公次を経て公忠が「宮原」を正式の氏と称し相良氏に仕え、宮原40余町の地頭(領主)となりました。
当時の宮原城は、三宮社(現在の三神宮)の西南方の水田にありました。石垣や櫓の高い構えではなく、平地に堀や土提を築き、竹や木を植えて戦いに備えた平城でした。
公忠公は天法や兵道を修め、八代妙見の霊符(お守り札)を信仰し、神仏を敬い、神道仏道の教えを村人たちに広めたので、たいへん尊敬され慕われました。宮原氏の中興の祖と言われています。別の名を宮原左衛門尉公忠と言い、出雲守とも言いました。現在ではキンタダさんと愛称されています。
人吉地方や八代、宇土地方で戦いが続き、臨終のときの遺言により、入棺されるときでも甲冑のままだったと伝えられています。 1983年11月
寄贈:緒方義弘氏 土地提供者:大塚圓治氏 宮原町教育委員会
奥方の墓
宮原三神宮
昔お城の中のお墓を撤去してほしいと役所より言われた為、紙に墓標の記載を書いたものを壺に貼り付けていたようです。
この資料が無ければ宮司様から頂いた系図が私の家の系図とは、解らなかったと思います。
しかしお城の中のお墓はこの時点では、不明でした。
今回はここまでで終わります。
次回は、忘れられたお墓を紹介します。
人吉カトリック教会の裏山に有った、宮原・黒木家のお墓です。
黒木家も親戚と思われますが、現在は東京にお住いのようです。
(このお墓は、現在撤去されてお骨は教会の納骨堂に安置されて居ます)