※秋田鎌倉往復
やがて兼任の乱も鎮圧され、再び安定を取り戻した東北地方は頼朝の威令のもとに支配が進み、秋田地方も地頭橘公業の指導によって開発が進むことになった。しかし公業は頼朝の側近にとり立てられ、忙しい身である。毎年正月に行われる年始の弓始めには必ず射手として出場しなければならないし、鎌倉での重要な行事にはきまって出席が義務づけられた。とくに頼朝が京都へ上るときなどは、上方に詳しいということから案内役をつとめ重責を果たした。そうした関係で秋田へは合間をぬって来る以外になかったが、公業は秋田の開発には積極的につくした。また秋田の神仏を大事にし、男鹿の本山にしばしば田畑を寄進した。支配者にとって大事なことは先ず庶民の心をつかむことである。その方法は庶民が崇敬しているものを自分も率先して敬うことであろう。橘氏が秋田を支配した痕跡は比較的太平に強く残っているが、それれも秋田平野で生活する人びとの間に定着していた太平山信仰を、橘氏自身が大切にしたからである。
※宇和郡没収
1195年、初代将軍頼朝が死亡すると、幕府内の力関係に次第に変化が生じてきた。北条氏が台頭(勢いをます)してきたのである。その結果、東北地方には北条氏の土地が次第に増大してきた。当然、北条氏と結びついた武士団も台頭してくる。例えは北条氏は津軽に土地をもっていたが、その代官をつとめる安藤氏などは海運を利用し、南に拡大する気配をみせてきた。橘公業が北条氏のため、平安時代以来所有してきた伊予国宇和郡を没収されたのは、その後間もなくのことである。「吾妻鏡」1236年2月の記述は次のように述べている。
伊予国宇和郡のこと、橘公業の支配を止め、西園寺公経の領地にする。前から西園寺はこれを望んでいたが、この土地は橘氏が先祖代々支配し、受け継いできた。何ら罪もないのに没収されるのは悲しいことである。ということなのでそのままにしてきた。しかし西園寺は、望みが達せられなければ老後は真っ暗である。と言ってきたので右のようにきめた。
要するに没収の理由は西園寺がとくにその土地を望んだことにある。しかし実情は明らかでない。西園寺は北条泰時と親しい公卿で、北条氏の力添えで太政大臣になっている。要するに西園寺のわがままから没収されたもので、それだけ幕府内における橘氏の地位が下がっていたと言える。橘氏にとって宇和郡は三百年近く維持してきた本領で、橘氏の有形・無形の歴史がこめられた財産にほかならない。従ってもし頼朝が存命していれば、絶対起こることのない事件であった。
なお公業は、このとき、宇和郡にかわる土地を九州に与えられたが、肥前(佐賀)大隅(鹿児島)・肥後(熊本)・豊前(大分)など四カ所に分散し、統一的経営に不敵な辺地が多かった。
※秋田を手放す
橘公業は鎌倉に見切りをつけることにした。宇和郡を没収されても、およそ半世紀にあたって経営してきた秋田郡があるが、それも手離し、宇和郡に近い九州肥前に移る計画をたてた。肥前は没収された宇和郡にかわって与えられた辺地である。しかし、公業は幕府から遠く離れた土地で、武士としての実力を貯えようと考えたのであった。さっそく公業は秋田の土地を子息公義・公員らに分割譲渡した。しかし公義・公員もほとんど秋田経営に積極性を示していない。彼らもやがて鎌倉を去り、遠く九州に移ることを考えていたのである。公義・公員は公業のいなくなった鎌倉の屋敷に残り、幕府の行事に時折り顔をみせたが、父公業ほどの面影はなく下級役人の地位にとどまった。
公義・公員と秋田の関係を示す記録はほとんどない。そして橘氏と秋田郡にかかわる記録は1239年が最後である。
橘氏が秋田地頭であったとき植えられた木がある。現在、柳田の火産霊神社境内にある樹齢800年のけやきの巨木がそれである。菅江真澄の「月のおろちね」に記されている「重三郎」は江戸時代「橘姓」を名のっていた。彼の屋敷は柳田の広い地域を占め、若宮八幡を屋敷神としていた。これも橘氏と秋田の関係を今日まで伝える記念物である。
上の画像は、橘町の潮見神社上宮(諸兄を祀る)・下は中宮(公業)です
「秋田歴研協会誌」五十一・五十二合併号「浦城主三浦氏について」から抜粋 ※内容的に上に続きます
秋田郡地頭橘公業は嘉禎二年(1236)、本拠伊予国(愛媛県)宇和郡を没収されるが、その理由は伊予の知行国守でもある西園寺公経が特にその地を要望したことからである。これは橘氏が瀬戸内海運にも従事し、そのため西園寺氏と利害関係で対立していたからかも知れない。橘氏が宇和郡を手放すことにかなり難色を示しているところをみると、鎌倉に屋敷を置きながら北は秋田郡経営、西は瀬戸内海運にも力を入れていたことと察せられる(考えられる)。ともあれこの没収から間もなく、橘公業は代替地として与えられた肥前国長島に本拠を移し秋田郡から去っていった。
以上で塩谷順耳先生の論文、橘公業波乱万丈の生涯(秋田編)を終わります。
(平成26年7月塩谷先生より資料を頂く)