†真田幸村† | Gothicの奨め

†真田幸村†

 

小説やお芝居、映画や漫画などで有名ですが、纏めた本と教科書、史蹟と情報や伝承がいまいちイメージと一致しない、明治、大正時代、江戸時代後半までには歌舞伎、浄瑠璃、講談、芝居絵になり大阪城落城のことも悲劇を使い忠誠に熱いヒーローとして復活、その後庶民のなかで人気者に、私としては創られたキャラクターとしてか、歴史のなかにいる戦国武将としておくか悩みます。色々本を読んだり、幾度か縁の地へ行きましたが、それはさておき地方の豪族の活躍や飢饉の多い小国の領地争い、真田一族、氏族達の長い戦い。それを伝えるため真田十勇士のお話が生まれる。実際、戦が上手い地方の豪族の武将だったはず、国牧管理者名族古代大伴氏を始祖としていると読んだことがあり、中興の祖であり今の戦国武将のイメージの世界と合うのは幸隆の時代から、幸隆、昌幸あってこそ、(もう一説は清和天皇の子孫、京都のお公家からお嫁さんを貰ったからという事だけではなく、京都からわざわざ信濃に来た。)真田という文字の意味と読み方は(実田)とも書かれ、稲作にたずさわる(稲作は神様に仕えている一族が行うことで、白鳥明神信仰していたことからそうではないか?)氏族で滋野の一族は陰陽道や呪術をこなせる集団(加持祈祷、山伏生業)で大伴氏も忌部氏同様、忍の者の祖と呼ばれる人々 真田氏のどの戦の活躍でも戦法が謀略、夜襲など小豪族の卑怯ともとれる方法が表裏比興の者 日本一の兵と呼ばれるキャッチコピーが出来る、私は好きじゃないけど当時の評判や評価のようなものではなく書状や書簡にあるようで、敵からの手紙に書かれていたら恐ろしい話です。(笑)真田源次郎信繁(幸村)のちに出家名、洗礼名を持つ。真田一族は豊臣、武田、上杉と強豪に遣える。16才で人質に出る、戦いについていく事はあっても初陣がなかったかも、だいたい15才が元服とされているがどれもなかった可能性、兄と立場が逆と言われるのは諱の意味と言われています。昌幸と共に関ヶ原の戦いで負け幽閉された。このとき出家した可能性があり、そもそも幸村はあまり相手にされていなかったかもしれません。(西軍が負け、西軍と東軍に別れて真田一族は戦ったため負けた方についていた昌幸親子は兄信之には助けて貰い、高野山に配所されたとされる本当か疑わしいエピソード、でもどんなお話にも使われているから本当の話なんでしょう(笑)人質と蟄居ばかりで戦国武将としての活躍や挿話で人気が出たのは討ち死にしてから、武将としては兵法や戦法などは長けていたかもしれない。家康や信長と比べたらおかしいだろうけど、聞いた話ではお作法や習い事など出来なかったかもしれない。私が気に入っている真田幸村の沢山ある物語のエピソードのなかに大阪の陣で、豊臣秀頼にむかって屏風を使い、落ち延びて海外に逃げよと言い、その屏風には幸村のは描いたイタズラ書きが残っているという。諸説ある落ち延び伝説の中でも全く想像が出来ないマニラへの逃亡 わらべ歌も流行ったとされる薩摩への逃亡、その後島原の乱に繋がったという異説。敵の本陣で亡くなった幸村とされる首実験で断定出来なかったというエピソードはどんな話にもあるけど、敵も味方も見ていた文屋も幸村の頭髪や衣服を切って持ち帰った。など後世に残ったお話と実在した信繁はどのくらい違ったのかな?家康を大阪の陣で殺した(刺した)とまで言われ、大阪にはわざわざ家康のお墓がある寺まであり、酷い話だな~と思います。(笑)2021投稿