2025年10月20日(月)雨のち曇り☔

 

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やってきました!萩城下町!!!

 

 萩城下町

 


幕末期に倒幕の中心となった長州藩の城下町。今も江戸時代の町割りが往時のまま残り、古地図で歩ける街といわれる。

幕末から明治にかけて吉田松陰や高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文、山縣有朋などの優れた人材を輩出し、彼らにゆかりの場所は数多い!

 



住所:山口県萩市呉服町、南古萩町

料金:各施設による

休業日:無休

営業時間:見学自由

電話番号:0838-25-3139

 

今回は時間がなかったので、1つ1つの施設は見ておらず外観の写真と説明だけを読みました!

ぜひより詳しく見たい方は訪問してみてください~👀

 

 

 円政寺



 

高杉晋作、伊藤博文が学び遊んだお寺。

境内には十二支の彫刻が施された珍しい形式の金毘羅社があり、神仏習合の形態が見られる貴重なお寺で、高杉晋作や伊藤博文が幼少の頃に勉学に励んだことでも知られている。
境内には大きく迫力のある天狗の面がある。晋作は小さい頃病弱だったため、母親がこの天狗の面を見せて晋作を勇気づけたと言われている。

引用:

 

 

 




 

 木戸孝允旧宅



桂小五郎の名でも知られる”維新の三傑” 木戸孝允

 

入館料:100円

開館時間:9:00~17:00

 

 



木戸孝允は天保4(1833)年6月26日、萩藩医和田昌景(石高20石)の長男としてこの地に誕生。

8歳で石高150石の桂家(末期養子のため石高90石)の養子となったが、養母死亡のため実家で成長し、江戸に出るまでの約20年間をこの家で過ごした。本をよく読み、習字は師匠を「あっぱれ!」と唸らせるほどの腕前だったとか🖌

 

初名は桂小五郎、33歳の時藩令により木戸貫治、翌年木戸準一郎と改めた。実名は孝允。

 
17歳の時には藩校明倫館で、吉田松陰に学んだ。
山鹿流兵学教授であった松陰に兵学を学び、小五郎は松陰に「事をなすの才あり」と評される。松陰とは、師弟というより同志のような関係を育み、松陰の主宰した松下村塾には通っていないが、門下生たち(久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文など)から兄貴分として慕われ、深いつながりがあった。
 
30歳のころから、藩の要職に就く一方、京都にも赴いて国事に奔走した。
長州藩で幕府勢力と対抗する体制が整うと、小五郎は慶応元年(1865)藩に帰り、藩政の第一線へと復帰し改革を推進、藩命により木戸と改姓。
木戸としての最初の仕事は慶応2(1866)年、坂本龍馬の仲介によって敵対関係にあった薩摩の西郷隆盛らと討幕の一大勢力となる「薩摩同盟」を結んだことであった。
 
明治新政府では特に五箇条の御誓文の草案作成に参画し、版籍奉還や廃藩置県の実現に尽力した。これらの功績により、西郷隆盛・大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれた。明治10(1877)年5月26日、西南戦争のさなか、45歳で京都で病死。
この旧宅は大正15(1926)年に子孫の木戸幸一氏より当時の萩町へ寄贈されたもので、桟瓦葺二階建て。木戸孝允が誕生した部屋や庭園など当時の姿をよく残しており、昭和7(1932)年に国の史跡に指定された。

 

 旧久保田家住宅



 

入館料:100円

営業時間:9:00~17:00

 

呉服商・酒造業を営んでいた久保田家は、幕末から明治時代前期にかけて建築された町家で、主屋・門・塀・離れが御成道(おなりみち・参勤交代の際に大名行列が往来した道)に面し、菊屋家住宅と対峙するかのように立ち並んでいる。
久保田家は、初代庄七が江戸時代後期に近江から萩に移って呉服商を開き、2代目の庄次郎から酒造業に転じたと伝えられる。以来明治30年代まで造り酒屋「あらたま酒店」を営業。明治時代には、来萩した名士の宿所としてもしばしば利用されている。

旧久保田家住宅の主屋は、屋根裏に物置や使用人の寝間を設けた「つし二階」を持ち、立ちが高いのが特徴。幕末から明治前期にかけての建物として、意匠・構造・技術に優れ、酒造業で繁栄した往時の状況もよく伝えており、「国指定史跡萩城城下町」を構成するきわめて重要な建物である。

 



 

 高杉晋作誕生地



 
入館料:100円
開館時間:9:00~17:00

 

萩藩士高杉小忠太の長男として天保10(1839)年に誕生。

晋作は10歳のころに天然痘を患い、当時は漢方医が多く、治療にはなす術がなく、見放されていたが、蘭学を学んでいた青木周弼の治療により、一命をとりとめることができた。

安政4(1857)年、久坂玄瑞のすすめにより松下村塾※に入門し、吉田松陰の生きた教えを受けた。

※松下村塾の塾生は下級武士か庶民の子が多かったが、やがてこの塾からは、伊藤博文、山県有明など幕末から明治にかけて活躍する人物がたくさん誕生する。

 

身分制度にとらわれないという初めての軍隊「奇兵隊」の創設、四国連合艦隊との講和談判、下関挙兵などを行い、明治維新のため尽力した。

文久2(1862)年藩命により、情勢視察のため清朝中国の上海へ渡航。そこでアヘン戦争に敗れ欧米の支配を受ける中国の実情を見ることに。当時日本は欧米列強の脅威にさらされており、晋作は大きな危機感を抱きその年、攘夷を方針とする長州藩の同志とともに、幕府が品川御殿山に建設中だった英国公使館を焼き打ちに。

 

晋作は当時肺結核に侵されていたことから、維新の実現を見ることなく慶応3(1867)年28歳の若さで病死。

 

元々の誕生地は部屋数が20以上ある広い武家屋敷であったそうだが、現在残っているのは一部のみ。

旧宅内に晋作の写真や書などが展示され、邸内には自作の歌碑や詩碑、産湯に使ったといわれる井戸がある。

 

 

 

 日本の道 100選



 

旧萩城の外堀から外側に広がる城下町は、町筋は碁盤目状に区画され、中・下級の武家屋敷が軒を連ねていた。現在でも町筋はそのままに残り、往時の面影をとどめている。

菊屋横町には、藩の豪商・菊屋家をはじめ、幕末の風雲児・高杉晋作の誕生地、第26代総理大臣・田中義一の誕生地が。
白いなまこ壁のこの横町は「日本の道100選」の一つに選ばれている。

 




なまこ壁は岡山県の倉敷で見かけていたので、なんだか懐かしい気持ちになりました。

 

 





萩城下町、、。ここまで有名な方々がこんな狭いコミュニティの中で生まれているだなんて、本当に素晴らしいと感じました。

環境のせいにしてはいけませんが、やはりこれも明倫館や松下村塾があったからこそこういった方々が成長できたのではないのかなとも考えます。

 

晴れていたらもっときれいだったと思いますが、大雨じゃなかったことにだけ感謝します⛅

 

 

山口旅行これにて終了!!!!!!大満足の旅でした!

また韮山反射炉に行けるようにお金頑張って貯めます~💰

 

 

 

 

では~🫧