2025年11月20日(木)晴れ☀️

 

 

ソウルカフェショーは入場券さえもっていれば、その日ならいつでも再入場ができるので、

ちょっとコーヒーから逃げるためにきました!

 

 

📍봉은사/奉恩寺



 
 

 

 

場所:ソウル市江南区三成洞73

時間:4:00~22:00

電話番号:+082-2-3218-4800

 

 

 

 


 

奉恩寺の歴史

⚠️文章、写真は公式HPより引用しております


新羅時代

出典: 奉恩寺公式HP


奉恩寺は新羅時代の高僧 縁会国師※が794年(元聖王10)に見性寺(견성사)という名前で創建した。

 ※『三国遺事』によると、宴会国師は霊鷲山に隠居しながら法華経を唱えながら普賢行を修めた新羅元聖王代の高僧である。 

 

また、三国史記巻38<雑誌(雜誌)>第7には、奉恩寺聖戦寺院に該当する7つの寺院の一つとして奉恩寺が言及されており、 その七つの寺院は四天王寺·奉先寺·感恩寺·奉徳寺·永慕寺·永興寺そして奉恩寺となる。

聖殿は王室で建立する寺院の造成と運営のために設置した一種の官府だった。 当時、聖殿が設置されるほどの寺院は新羅社会で非常に大きな比重を占めていた。

実際、奉恩寺だけを見ても

① 新羅真智王の追福のために建立されたという点

② そのためにすでに恵恭王の代から寺刹造成を始め、善徳王を経て元聖王の代に至って完成したという点

などが各種資料によって確認されている。


高麗時代


韓国の歴史上に登場する奉恩寺という名前を持つ名札は3ヶ所ある。 3ヶ所それぞれ新羅、高麗、朝鮮時代に仏教史的に、国家的に重要な役割を果たした寺院である。 


まず、新羅時代の奉恩寺は恵恭王の代に始まり、元聖王の代に完成した聖戦寺院である。

 そして高麗時代の奉恩寺は首都開城に位置した寺院で、太祖以来、歴代王室で非常に重視していたところ。 ここは禅宗系統の寺院として有名で、代々国師・王寺の冊封が行われたりもした。

最後に朝鮮時代の奉恩寺はまさに文政王后の発願と普賢大師の精神が息づくソウルの奉恩寺。

宝物第321号に指定されている銀入寺香炉は、1344年(忠恵王5)に造成され今は大韓仏教曹渓宗仏教中央博物館に所蔵されている。

 


SNY

 


朝鮮中期 - 朝鮮時代の僧侶の活動と禅宗修史刹


朝鮮時代に仏教寺院を大幅に縮小しようとする政策(「崇儒抑仏」政策)により

1406年(太宗6)には国家認定寺院が242寺に減り

1424年(世宗6)には再び全国の寺院の中から宣教両宗(禪宗)の各18寺ずつ36寺だけを選定し、3千7百人余りの僧侶だけを認めるようにした。

このように朝鮮の宣教両宗制度施行時にソウルの中心寺院は禅宗寺院興泉寺教宗寺院興徳寺だった。 この他に近隣に僧伽寺と葬儀社が36寺に入って認められたが、奉恩寺やその前身である見性寺は見当たらない。 しかし、しばらくして燕山君の代に興天寺と興徳寺が廃止され、宣教両宗制度も崩れた。



「崇儒抑仏」政策が行われた背景

そもそも崇儒抑仏政策とは

朝鮮王朝が建国後、仏教を抑圧し中国から伝来した儒教(主に朱子学)を国家の根本理念として奨励した政策


背景としては国家統治(中央集権国家を作る)のためには儒教の方が都合が良かったからで

この時代に儒教的価値観に基づく社会秩序(上下関係や祖先崇拝、身分秩序、忠誠など)を確立しようとした🙆🏻‍♀️


これは現在の韓国文化にも深く根付いていて

約500年にわたる統治を通じて、韓国社会に儒教的な「年長者(上)を敬う」「家族・祖先を重んじる」といった考え方を深く根付かせるきっかけとなった🙇🏻


文政皇后は1550年(明宗5)に宣教両宗を復活させ奉恩寺をその本山とするようにし、燕山君代以後に実施しなかったが、1507年(中宗2)に完全に廃止した僧侶たちの過去である僧科(僧科)を「経国大典」に基づき再び施行するようにした。


禅教の両宗の復活に伴い、両宗体制が再び機能を取り戻し、奉恩寺は禅宗修思刹(禪宗首)になって、教宗の修思刹である奉禅師と共に仏教界を率いることになった。

 

1562年(明宗17)9月に宣陵の東麓にあった旧奉恩寺の跡に中宗の貞陵(靖陵)が天陵された。中宗は最初、王将敬王后(章敬)が埋葬された熙陵(禧陵)に並んで埋葬された。 ところが、文定王后は自分が後で帰ると中宗のそばに一緒に葬りたいという考えから中宗の陵を奉恩寺の跡に移すようにして貞陵がここに位置するようになった。


この天陵によって奉恩寺は修道山の現在の位置に大規模に拡張移建された。 王陵関連記録では、朝廷で都監を設置し、堂宇と寮舎を創建したため、以前よりはるかに雄大になり、慶山祭察の最高になったという。



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近現代 - 禅宗甲刹大本山と自飛行の布教道場



1895年、僧侶の都城出入り禁止措置が解除され、地方寺院の布教堂がソウルに増え、都心の布教も新しく姿を見せた。

日本は1911年に寺刹令を頒布し、30本山制により朝鮮仏教を日帝の掌握下に置こうとした。 これに伴い、奉恩寺は京畿道の禅宗大本山になってソウルをはじめとする光州、高陽、楊州、始興、水原、驪州、利川、楊坪、坡州など8郡78ヶの末寺を管轄することになった。

ソウル甲刹の本山だった奉恩寺は、都心の布教の重要性を認識し、1922年の麻浦布教堂を皮切りに、1924年に安辺、1926年に仁川、1932年にソウル関東、1933年にソウル顕著洞、1934年にソウル沃川洞など計6つの布教堂を開設し、積極的な布教活動に乗り出した。

寺院運営にも格別だった清湖和尚は、衰退した殿閣を順に重修して寺の形勢を整備したが、1939年に火災に遭い、板殿を除く建物は全て全焼してしまった。 それで現在残っている堂宇は1941年にテウク(泰旭)が重創したのだ。

日本植民地が終わった後、奉恩寺は曹渓宗総務院直轄の寺院になった。 しかし1950年の朝鮮戦争で堂宇の大部分が焼失してしまった。 そのため、戦争が終わって部分的な重創不死が行われ、持続的な発展を見せた。 そして1960年代に浄化を経て統合縦断曹渓宗がスタートし、奉恩寺も新しい出発をすることになる。
 

 



 

奉恩寺へ行って感じたこと

 私は日本でも神社やお寺などの建物が大好きなので、見つけたら常に寄るようにしてます。

今回も奉恩寺をコエックスの近くで見つけたので、行ってみたのですが改めて感じたことが多かったように思います。



それは韓国の方はやっぱり信仰心が強い。ということ!

日本でももちろん入る前、出る前に一礼する

お賽銭を投げてお祈りするなどは普通に見かけられますよね。




韓国でもそれくらいだと思っていたらそんな事はなくて

入った瞬間にお供えのために

蝋燭を買ったり、お米を買ったりする方が思った以上に多かった点や




1番大きい像に向かって何度もお参りをするおばあちゃんがいたり

自分の干支の銅像に向かってお祈りする方は普通にたくさんいらっしゃったり

私が今まであまり大きなお寺や神社に行ったことないということを加味しても

ここまでお祈りする時間が長い人々がたくさんいることに驚きが隠せませんでした。


また今回初めて奉恩寺の歴史の流れ、沿革を調べてみて

今も韓国に強く根付いている文化である、年上を敬う・忠誠などはここで生まれたんだ、、、

と初めて知ることばかりでした🌿

まだまだ知らないことが多いですね😂

 

ぜひ韓国に行かれた際は奉恩寺に寄ってみてください〜!

 

 

では〜🌈