2026年2月6日(金)晴れ☀️
前回の記事の続きです!!
まだ見ていない方はこちらのブログから先にご覧ください👀✨
今回は1900年からご紹介します〜✏️

1900〜1930年代
1900〜1910年代:排除の仕組み
1901年
憲法第127条の制定
連邦の人口を計算する際、不名誉にも「アボリジニの原住民は算入しない」と定め権利を剥奪。
白豪主義と「読み書きテスト(Dictation Test)」
連邦会議の最初の法律の一つである「移民制限法」により、税関職員の裁量で任意のヨーロッパ言語を使った極めて不条理な筆記テストを課すことで、アジア系などの有色人種の移民のような非英国民移民を合法的に排除する仕組みが作られた。
太平洋諸島系労働者の強制送還
「太平洋諸島労働法」により主にクイーンズランド州のサトウキビ畑で働くために(多くは奴隷や年季奉公として)強制的に連れてこられた約1万人の島民が、オーストラリアで築いた生活が合ったにも関わらず強制送還された。
白豪主義(White Australia policy)とは
オーストラリアを白人(特にイギリス系移民)の国にすることを目的とした、排他的な人種差別政策・思想のこと。
1901年の連邦結成とともに法制化 オーストラリアが1つの国としてまとまった1901年、最初に成立した法律の一つである「移民制限法」がその象徴
主に実施されたことは、
①読み書きテスト(Dictation Test)
②国内の先住民や既存の移民への弾圧
〈なぜ白豪主義が生まれたのか?〉
19世紀後半のゴールドラッシュ(金鉱山ブーム)などで多くのアジア系(特に中国人)労働者が流入した際、白人労働者との間で雇用の奪い合いや文化的な摩擦が勃発。
これが「白人の仕事や生活水準が脅かされる」という恐怖心や人種偏見に繋がり、政治的に利用されて国策へと発展していった。
〈その後どうなった?〉
第二次世界大戦後、労働力不足や国際社会からの批判(人種差別の撤廃要求)を受けて、この政策は徐々に維持できなくなり、 最終的には1973年に完全に廃止され、現在のオーストラリアは多様な文化や民族を認め合う「多文化主義(Multiculturalism)」の国へと方針を大きく転換していく。
1914年
第一次世界大戦の勃発
移民がストップし、ドイツ、ブルガリア、トルコ、オーストリア=ハンガリー国籍の住民やその子孫が強制収容、または移動を制限され、戦後に多くが強制送還された。
帰還兵への不条理: ボーア戦争以降、オーストラリアが関わったすべての紛争に多くの先住民兵士が誇りを持って従軍した。
しかし、第一次世界大戦から帰還したジム・ワンディン、アルフ・デイヴィス、ヘンリー・イングラムといった兵士たちは、先住民の血を引いているという理由だけで、復員軍人に与えられる「入植地(土地)」の割当対象から除外された。
ボーア戦争(Boer War)とは?
19世紀末から20世紀初頭にかけて、南アフリカの覇権をめぐってイギリス帝国と、オランダ系移民(ボーア人)の共和国との間で起きた激しい戦争。
〈 どんな戦争だったのか?〉
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時期: 1899年〜1902年(オーストラリアが連邦として独立・建国した1901年をまたいで行わた)
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場所: 南アフリカ
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対立: イギリス帝国 vs ボーア人(オランダ系移民の国家/オランダからアフリカへ移った白人及びアフリカ系白人)
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原因: 南アフリカで大量の「金(ゴールド)」や「ダイヤモンド」が見つかったため、その支配権をめぐってイギリスが戦争を仕掛けました。
当時のオーストラリアはイギリスの植民地(のちに連邦国家)だったため、イギリス軍の一部として約1万6,000人以上のオーストラリア兵が南アフリカへ派遣された。
これは、オーストラリアが「国家」として海外へ兵隊を送った最初期の歴史的な経験となった。
ボーア戦争については初めて聞いたので今後の私のために調べてみました!
またボーア戦争について多くの名作の映画作品が作られているため、将来の私が観る用でリストアップをしてみました!😂
もし他の作品でおすすめがあれば、ぜひ教えてください〜👀✨
ボーラ戦争を取り扱った映画作品
①『英雄モラント/傷だらけの戦士(Breaker Morant)』
1980年にオーストラリアで製作された映画
第二次ボーア戦争末期、南アフリカで捕虜を処刑したとして、イギリス軍の軍事裁判にかけられた3人のオーストラリア人将校を描いた実話ベースの法廷劇。
戦争に関する映画を探していてもオーストラリアが製作した映画ってなかなか見つけることができなかったので、オーストラリア将校の話をオーストラリアが描いているという点がとても魅力的だと思いました。
ぜひ日本語字幕でしっかりと観て内容を理解したいです!!!
②『世界に告ぐ』
1941年にドイツで製作された伝記映画
第二次ボーア戦争を題材にした作品であり、ドイツ側からイギリスの残虐性をプロパガンダとして描いた国策映画。
劇中では南アフリカの政治家、ポール・クリューガーの生涯とトランスヴァール共和国の崩壊を描いている。
③『キングスマン:ファースト・エージェント』
2021年にアメリカで製作された1902年の第二次ボーア戦争末期の南アフリカからスタートする映画 この映画の物語の核は大英帝国の繁栄の裏にある暗い歴史を批判することであるため、第二次ボーア戦争からストーリーが始まっていくことは、ものすごく重要なことだとされている。
1920年代:管理の強化と抵抗の始まり
非英国系移民の制限と先住民の抑圧
政府は厳しいクォーター(割当制)を導入し、ヨーロッパからの移民数を制限。
一方で、多くの混血の先住民の子どもたちが家族から引き離され(盗まれた世代の背景)、保留地での過酷な生活や、不当な契約下での無報酬労働を強いられた。
1922年
帝国入植法(Empire Settlement Act)
英国系移民に対して、渡航費の補助や仕事、土地の提供を行い
地方への入植を促す制度が開始。
しかし、ここでも先住民の土地は彼らの同意や補償なしに分配された。
1924年
オーストラリア・アボリジニ進歩協会(AAPA)の結成
シドニーにて、先住民による初の政治組織「AAPA」がフレッド・メイナードらによって結成。
彼らは完全な市民権、土地の権利(ランドライツ)、そして子どもたちを家族から引き離す行為(※のちに「盗まれた世代」と呼ばれる政策)の停止を求め、そしてアボリジニの文化的アイデンティティの保護を求めて運動を展開した。
1930年代:行為の拡大と「喪服の日」
1932年
オーストラリア・アボリジニ連盟(AAL)の設立
ヨルタ・ヨルタ族の長老ウィリアム・クーパーらによりメルボルンで設立され、連邦政府が先住民に関する独自の国家政策を策定するよう求めた。
1938年
難民への門戸開放とクーパーの訴え
ウィリアム・クーパーは、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害を「他国での少数派民族の苦難」として捉え、自ら抗議活動を行うとともに、ドイツ領事館へ抗議文を届けた。
当時のオーストラリア政府は、6,000人のユダヤ人難民の受け入れを許可した。
「喪服の日(Day of Mourning)」
ウィリアム・ファーガソンやジャック・パテンらの主導により、白人の入植(ファースト・フリートの到来)から150周年を迎えた日、先住民たちはそれを祝うのではなく、土地を奪われた歴史を悼む「喪服の日」として抗議集会を開いた。
これが後のアボリジニの日(NAIDOC Week)の起源となる。
1939年
クメラグンジャのボイコット(Cummeragunja Walk-Off)
ニューサウスウェールズ州のクメラグンジャ保留地にて、当局による劣悪な処遇に抗議するため、約200人の先住民が保留地を放棄してビクトリア州側へと川を渡る決死のボイコット(ウォークオフ)を決行した。
NAIDOC Week(ネイドック・ウィーク)とは
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いつ: 毎年 7月の第1日曜日 〜 翌週の日曜日(1週間)
- どんな日: 先住民の歴史、文化、そして社会への貢献や功績をオーストラリア全体で祝い、学ぶための最も重要な1週間
なぜNAIDOCという名前なの?
最初はアボリジニ(Aborigines)だけを対象とした「NADOC」という名前であったが、1991年にトレス海峡諸島(Islanders)の先住民の存在もしっかり認めようということで、中間に "I" が入り、現在の NAIDOC(National Aborigines and Islanders Day Observance Committee)という1週間のイベント名になった。
なぜ7月なの?
「抗議(悲しみ)」の日から「文化を祝い、称える」日へとステップアップさせるため
始まりは1月(1940年〜1955年) 1938年1月26日の「喪服の日(Day of Mourning)」のあと、1940年からは毎年「オーストラリア・デー(1月26日)の直前の日曜日」をアボリジニの日(Aborigines Day)として、抗議の日にしていた。
しかし1955年、 1月のままだとどうしても白人たちの建国記念日のお祝いムードの影に隠れてしまったり、単なる「抗議・悲しみの日」で終わってしまったりしがちであったことから 「ただ抗議するだけでなく、先住民の素晴らしい文化やアイデンティティを、国全体でポジティブに祝い、記憶する日にしよう!」という大きな方針転換が行われ、お祝いに集中しやすい 7月の第1日曜日へと日付が移された。
次の記事もボリュームたっぷりなので
ぜひ見てください🙏
では〜🌈





