こんばんは、mpp(まーパパ)です。
ラムネ温泉のあとのドライブの目的地は、
■田染荘(たしぶのしょう)
大分県豊後高田市田染荘小崎
「荘園」ができるまで。
荘園ができるまでは,日本の農地はすべて朝廷が持っていました。大化の改新(645年)の7年のち,土地と人はすべて朝廷(国・天皇)のものとし、農民には口分田(くぶんでん)を貸し与えると言うきまりができました。口分田は1代限りで,その人が亡くなると朝廷に返さなくてはなりません.この法律を班田収授の法(はんでんしゅうじゅのほう)と呼びます。
班田収授の法では6年ごとに戸籍(こせき)を作り,貸し与えられた口分田からとれるお米のうち約3パーセントを租(税)として朝廷におさめることが決められていました。また、地方の役所である国府(こくふ)が必要とする工事に農民を60日間使ってよいという決まりや、国府で必要なお米を得るために農民に一方的に「米もみ」(お米の種)を貸し与え、利子をとるということも行われました。
その上、男子には兵隊になる義務もあり,地方の軍団に集められました。中には都までのぼり皇居の警護をする人もいました。特に関東地方の農民には防人(さきもり)といって、遠く九州の警護につかされそのまま帰ってくることのできない人も多くいました。
こうした厳しさから口分田をすてて逃げてしまう農民が増えました。口分田を耕す人がいなくなるわけですから、国は租税の収入が減ります。朝廷は困りました。そこで原野を新しく耕して作った田んぼは、親・子・孫の3代まで使って良いと言う法律を出しました。これを三世一身の法(さんぜいいっしんのほう)といいます。
しかし,この法律には大きな欠点がありました。3代たったら朝廷に返さなければならないからです。だから人々のやる気がおきなかったのです。そこで朝廷はまたまた新しい法律を出しました。今度の法律は「耕した土地は永久にその人のものになる」というものです。この法律を墾田永年私財の法(こんでんえいねんしざいのほう)とよびます。743年のことでした。
こうなると、はりきったのが沢山のお金を持つ京都や奈良の大きな寺院や神社、それに貴族たちです。彼らは新しい土地を探して、近くに住む農民や、口分田から逃げ出してきた人々を雇い、せっせと原野をたがやしていきました。
こうして広げた農地や農村をふくむ地域のことを「荘園」とよびます。
つまり荘園は大農園ということになります。こうして「私有地を認める法律」が出されたことにより、荘園は近畿地方を中心に全国に広がっていきました。
中世の風景を色濃く残す「田染荘」。
平成22年に国の重要文化的景観に選定され、
平成23年12月にはユネスコ未来遺産に登録されました。
この地域にまつわる、
昔話もたくさんあるようです。
のどかな田園風景に心が癒されました。