夫は雄弁ではありません。
お酒を飲むと普段よりもおしゃべりにはなります。
でも最近は自分のことを私によく話してくれます。
先日に起きた身内との会話で、どう思うかという質問をされた時に即座に答えられず、間があいてしまったことで、相手が不快に思ってしまったというのです。
その様子を聞いて感じた私の感想は、「質問をした相手は答えが決まっているからよ。このように答えるだろうと予測していたり、普通はこう思うに違いないという正解を持っているから、考えるという行為事態が許されないの。どう返答していいのか迷ったり、言葉をさがす時間も待てないの。」
質問をされると答えられない夫の様子が目に浮かび、ちょっと笑ってしまった。
夫婦の間でも以前は、よく繰り返されていたことだったからです。
答えが肯定か否定の二種類しかないように感じられて、どっちかすぐに答えを出せずに考えられると、本当は答えが決まっているのに本音と建前が違うので、言い訳や説明が必要になり、困っているんだなと感じてしまうのです。
夫は正直にその様子を見せてくれているのに、自分の思い通りに支配したい私が答えを誘導したり、急かしたりするのです。
支配欲が薄れてくると、その人それぞれの答えが無数にあることを受け入れられるので、気にならなくなります。
この支配欲って自分が何かに支配されているからだと思うのです。
その何かは宗教の教義だったり、自分が尊敬する人の生き方や言動だったり、親から刷り込まれたしつけだったり。
こうあるべき、しなければならない、という支配から抜けたときにやっと自由を感じることができて、人を束縛しなくなるのでしょう。
言葉の難しさを気にする夫ですが、育っていく上で、家族から常に言葉が足りないと言われた背景があります。
今、私が感じるのはコミュニケーションは皮膚感覚でするもので、言葉がコミュニケーションを阻害しているような気がします。
そして言葉をつかって支配されているような気がするのです。
良い言葉と悪い言葉があり、良い言葉を言い続けると良いことがあるように誘導するのも呪詛による支配と感じます。
本心がそう思っているのならその言葉の波動はいきるでしょう、でもそう思っていないのなら葛藤が生まれるのです。
自分の心の闘いを解放しないかぎり、平和は来ないのです。
相手の態度に不満を感じたら、それは相手のせいではなく、自分の中でおきています。
その不満の根源はなんなのでしょう。
夫の兄弟関係を観察しながら、探求していると、「呪」って「口」と「兄」なのねと発見しました。
いつも見ているサイトにちょうど書いてありました。
旧約聖書に兄のエサウは父が弟のヤコブを祝福したことを根にもって、
ヤコブを憎むようになった。
そして、心の中で言った。
「父の喪も遠くない、その時がきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる。」
これが呪いの漢字の由来だそう。
兄は神権を軽んじる傾向があったので、弟の妻(現在の私が弟の妻だよ(笑))が一計を案じ、弟に祝福がいくようにしたら、
結果、弟が父からの祝福を奪い取り、兄は弟を憎み呪うようになる。
未だに兄エサウの末裔のアラブはイスラエルを憎み続けている。
弟の名前のヤコブの別名はイスラエル。
神話による潜在意識の刷り込みが聖書にもあるそうです。
現実に起きてることが神話とシンクロしていて、社会にも個人にも及んでいました。
呪詛は知ることで解かれていきます。
お酒を飲むと普段よりもおしゃべりにはなります。
でも最近は自分のことを私によく話してくれます。
先日に起きた身内との会話で、どう思うかという質問をされた時に即座に答えられず、間があいてしまったことで、相手が不快に思ってしまったというのです。
その様子を聞いて感じた私の感想は、「質問をした相手は答えが決まっているからよ。このように答えるだろうと予測していたり、普通はこう思うに違いないという正解を持っているから、考えるという行為事態が許されないの。どう返答していいのか迷ったり、言葉をさがす時間も待てないの。」
質問をされると答えられない夫の様子が目に浮かび、ちょっと笑ってしまった。
夫婦の間でも以前は、よく繰り返されていたことだったからです。
答えが肯定か否定の二種類しかないように感じられて、どっちかすぐに答えを出せずに考えられると、本当は答えが決まっているのに本音と建前が違うので、言い訳や説明が必要になり、困っているんだなと感じてしまうのです。
夫は正直にその様子を見せてくれているのに、自分の思い通りに支配したい私が答えを誘導したり、急かしたりするのです。
支配欲が薄れてくると、その人それぞれの答えが無数にあることを受け入れられるので、気にならなくなります。
この支配欲って自分が何かに支配されているからだと思うのです。
その何かは宗教の教義だったり、自分が尊敬する人の生き方や言動だったり、親から刷り込まれたしつけだったり。
こうあるべき、しなければならない、という支配から抜けたときにやっと自由を感じることができて、人を束縛しなくなるのでしょう。
言葉の難しさを気にする夫ですが、育っていく上で、家族から常に言葉が足りないと言われた背景があります。
今、私が感じるのはコミュニケーションは皮膚感覚でするもので、言葉がコミュニケーションを阻害しているような気がします。
そして言葉をつかって支配されているような気がするのです。
良い言葉と悪い言葉があり、良い言葉を言い続けると良いことがあるように誘導するのも呪詛による支配と感じます。
本心がそう思っているのならその言葉の波動はいきるでしょう、でもそう思っていないのなら葛藤が生まれるのです。
自分の心の闘いを解放しないかぎり、平和は来ないのです。
相手の態度に不満を感じたら、それは相手のせいではなく、自分の中でおきています。
その不満の根源はなんなのでしょう。
夫の兄弟関係を観察しながら、探求していると、「呪」って「口」と「兄」なのねと発見しました。
いつも見ているサイトにちょうど書いてありました。
旧約聖書に兄のエサウは父が弟のヤコブを祝福したことを根にもって、
ヤコブを憎むようになった。
そして、心の中で言った。
「父の喪も遠くない、その時がきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる。」
これが呪いの漢字の由来だそう。
兄は神権を軽んじる傾向があったので、弟の妻(現在の私が弟の妻だよ(笑))が一計を案じ、弟に祝福がいくようにしたら、
結果、弟が父からの祝福を奪い取り、兄は弟を憎み呪うようになる。
未だに兄エサウの末裔のアラブはイスラエルを憎み続けている。
弟の名前のヤコブの別名はイスラエル。
神話による潜在意識の刷り込みが聖書にもあるそうです。
現実に起きてることが神話とシンクロしていて、社会にも個人にも及んでいました。
呪詛は知ることで解かれていきます。