アハハ! 女性器は「真理にわたしを導く泥の川の紆余曲折に沿ってなされる旅」の「極地」であった、だって!
骨の髄までキリスト教的なレリス。
えっ! 「真理」だって!
《世界》の謎を解き明かす究極の光の真理が問題となるのは、奴らが《世界》を無から全知全能なる創造主が意図・目的をもって創造したと考えているからだ。そうである以上、創造の意図・目的・理由・秘儀が論理によって、つまり合理的に説明されねばならない。だが、《世界》は説明しようがなくそもそもそこにあり、われわれは確かに人間という病める動物であるにせよ、それでも生物であることには変わりがないとしたら…。
女性器はわれわれを「真理」ではなく、われわれの切ない生物性に導く。それで十分じゃないのか?
ところで、レリスの奴は、「三月二十六日木曜日」の日記ときたひにはこうだ。奴は自分のこれまで書きつづってきた日記に毒づき、罵倒する。「くたばれ度しがたく間抜けな生よ死のおかま野郎世界などうんざり女郎と淫売の星々よおまえをうんざりさせおまえの鈍重な汚らしい女陰のなかに小便を流しおまえに罵言雑言をあびせ口のなかに汚物をまきちらしてやる」[i]
。真理への入口であったはずのものが今や小便のための便所である。そういえば、ゲルニカ制作と平行する「泣く女」シリーズでピカソが描いた泣きわめく女たちの口は、「歯のあるヴァギナ」と呼ばれていたはずだ。モデルは当時の愛人ドラ・マールであった。崇拝、憧憬、熱愛、一転しての、嫌悪・棄却・怨恨・復讐。典型的な男性的アンビヴァレンツ! シュールレアリスムの性愛的真実。
レリスはいい奴だ。俺は気に入る。なにしろガキのように素朴になれるところが。喚きたてるところが。しかも中学生的な俺は天の邪鬼的に嫌悪している。日本的微温さを。この点でも!
骨の髄までキリスト教的なレリスは反逆的である。瀆神的反逆性は、骨の髄までキリスト教的な文化のもとでのみ可能となる、シェイクスピア、バルザック、ドストエフスキー、ニーチェ、等々。奴らは創造主的な《神》に取り憑かれているからだ。いかなる場合でも弁神論・神義論という神学的地盤こそが彼らの思考地盤だ。つまり、何故に創造主はかかる漆黒の《悪》までもを妙なる麗しき光の善の脇に創造し給われたのか、という問いこそが。周知のように、それはまず旧約聖書の『エレミヤ記』に、次いで『ヨブ記』に現れ、新約聖書ではゲッセマネの地で十字架に架けられて悶絶するイエス自身のかの最後の言葉「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」において頂点に達する。すなわち「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てですか?」[ii] (マタイ福音書)に。
俺が半身それに憧れていることは認めざるをえない。この緊張に、対決に! この「神」という王権に対する。だが、それは半身の域を出るものではない。俺は結局永遠の振り子だ。ヨーロッパと日本とのあいだの。