コーラン9:5「剣の節」の正しい文脈は? | イスラム、コーランを知ろう!

イスラム、コーランを知ろう!

実際にコーランを引用し、理想ではなく現実に基づいたイスラム情報を発信します。

 

 

 

 

ムスリムの多くは9:5を知りません。これを見せると、フェイクだ、デマだ、とか文脈を無視して抜き取ってる、などと言われます。

それはまだいいのですが、「自分はムスリムだが、そんな事実はない」とこの節の存在自体を否定する方もいます。そして、「アラビア語の本物を見せろ」と。

アラビア語が読めるなら、ご自身のお手持ちのコーランで9:5を開いてください。これは実在します。どの言語に翻訳されようが主旨は変わりません。

自称コーランを知っている方が、この節を知らないと言う事は、本当は読んでない、としか結論出来ませんが。

 

 

 

9:5「多神教徒を見つけ次第殺し」を見て、これが戦争時の話で、無差別テロを命じてはいない、と言う人が多いので、この節の文脈を詳しく解説いたします。

 


 

 

 

9章の第1節は、多神教徒との盟約の解約を告げる事から始まります。

 

フダイビーヤの盟約(628AD)ムスリムと多神教との間で結ばれた盟約。

“ムハンマドによると”、多神教徒は一方的に盟約を破り、そのためその後ムハンマドは軍隊でメッカを征服した。

 

多神教徒は、メッカのカーバ神殿の周りで裸や半裸で歩いたり、踊ったりしていたため、ムハンマドはこれが許せなかった。そのためにこの章が啓示された。

 

9:2 アッラーは、四ヶ月間だけ、多神教徒に、自由に移動する事を許す。

 

 

9:3では、アッラーは、公式に多神教徒を解約します。

不思議かな、アッラーが多神教徒を解約したのはムハンマドが多神教徒を解約したい時と同時でした。「かれの使徒も同様にすると言うのです」はそう言う意味。

 

その後、イスラムに改宗すれば許される、それがあなた方のためにも最も良い、アッラーからは逃げられない。と書かれます。

信仰を拒否する人たちには、激しい苦痛の知らせがあります。

 

 

 

 

9:4では、盟約をちゃんと守った多神教徒については、「期間満了まで盟約を果たしなさい」。 

 

ここでやっと9:5に着きます。

多神教徒が自由な移動を許された四ヶ月が終了したら、あなた方はどこであれ、多神教徒を見つけ次第殺し、また彼らを捕虜にし、包囲し、あらゆる見張り場所で待ち伏せしなさい。

 

改宗すれば助けられます。

 

なので多神教徒に与えられた選択肢は、改宗か死かです。

 

この節が、戦争に聞こえるなら、ご自由にそう信じてください。

訳者注も、「あくまで戦争時の話である」と書かれていますが、そう思っているのは、平和的にコーランを解釈したいムスリムだけです。

(盟約破りの)と言う付け加えも、これは私の確認した英語訳にはありませんでした。

戦争とは、戦場で、軍隊同士が戦う事を言います。どこであれ、見つけ次第殺せと書いてあるので、これは戦場を指してはいません。

全知全能の神の完璧な本(←イスラム教徒の主張)が、言葉の誤解を引き起こすと思いますか?アッラーは言った通りの事を言っています。それが気に入らないムスリムは、アッラーの指令が気に入らないと言う事になります。もしアッラーが誤解をもたらす言葉を発したなら、それはアッラーが悪いんじゃ無いですか?彼は全知全能なので、どう訳され、どう「誤解」されるかも予め知っているはずです。

アッラーは「コーランの内容ははっきりしていて、全ての人への指示」(3:138)と自身で語っております。

 

 

この節が戦争を指しているなら、どの戦いか、戦争名を出して下さいと言ったところ、ムスリムの方からtabukの戦い(630AD)だ、という意見を頂きました。イスラム系チャンネルによる解説動画

しかしtabukの戦いは、当時中東/地中海で、イスラム勢力がローマ(ビザンチン帝国)、ササン朝ペルシアに続く三番目の勢力になったため、これを潰そうとローマ軍がtabukに派遣される出来事です。しかし訳あって、最終的にローマ軍とムスリムは交戦せずに終わりました。

ローマ帝国が相手な訳ですが、ローマは既に、キリスト教が国教に定められています(ローマのキリスト教の国教化は313AD) 。当時のキリスト教は多神教だったんでしょうか。知りませんでした。

 

 

ちなみに、この後9:28では「多神教徒は実に不浄です」 9:29では、多神教徒のメッカ巡礼が禁じられたため、交易の利益が減る事を懸念したムスリム達に、ユダヤ、キリスト教徒を新たなムスリムの収入(税収)源にするためのジズヤが導入されます。

 

 

 

 

 

 

・戦争説についての追記:

 

イスラム教徒はこの節は戦争時のみであると本気で信じており、絶対に考えを変えるつもりは無いようなんですが、仮にこの説が本当に戦争時だけを指しているとしても、残虐である事に変わりはありません。

なぜかと言うと、人間は本能的に人間を殺すべきでは無いと分かるからです。

 

アメリカ独立戦争や、第一次世界大戦で、実際に敵を殺す目的で敵を「狙って」撃っていたのは、兵士の2%ほどだと言うデータがあります。(ちなみにこれは人口中のサイコパスの割合と大体重なる)

銃弾が役割を果たすには、実は敵に命中する必要はありません。

 

普通、兵士は敵を撃てません。先に自分が撃たないと殺される、という、命の危機にいるから戦えるのです。武器を持っていない相手を殺すのは非常に難しいのです。

ある実話ですが、第一次世界大戦中、イギリス兵がドイツ兵と戦闘前に出会う事がありました。イギリス人は初めて見るドイツ人。さて、彼等はすぐに殺しあったのか?というと、そうではありません。イギリス人達は叫んだり石を投げたりしたそうですが、人が他の人と出会ったとき、銃で撃つ、というのは普通思いつきませんし、考えもしません。たとえ戦争の相手だとしても。

戦争は殺し合いというイメージがありますが、現実では、戦意を失った側が負けです。普通、戦争の目的は土地の獲得や、政治権力の獲得、宗教の強制などで、これが達成できたら終わりです。兵士の一人一人は当然自分の命が惜しいので、負けが確実な戦いで最後の一人まで戦うという事は珍しいです。負けを悟った軍隊は、逃亡や降伏をします。

負けた軍隊の兵士を尽く殺すのは戦争ではなく虐殺になります。現代では違法です。

ここでコーラン9:5に話を戻しましょう。

この知識を踏まえた上で、「どこであれ見つけ次第殺せ」が、戦争時なら神の言葉として受け入れられる、戦争時限定であるから問題がない、とするイスラム教徒が、どれだけおかしいかが分かるはずです。

 

「見つけ次第殺し」のすぐ後に、捕虜にし、包囲し、と書かれていますが、これらは「殺し」部分を打ち消すものではありません。「殺せ、だがやっぱり殺さなくていい」とは書いてません。(が擁護者ははそう主張する)

またその次、イスラムに改宗した者は保護され、助けを求める人は(最終的には改宗させるために)保護される、と書いてありますが、これも、前項を打ち消して内容を平和的に変えるものではありません。(が擁護者はそう主張する)

「殺せ」部分だけ引用すると、悪意のある、文脈を外した引用だ、と言われますが、「殺せ」が正当化できる文脈があると思っている方がおかしいですし、神の直接の言葉を引用して神が悪く聞こえるなら、それは悪い神なんじゃないでしょうかね。

ムスリムたち、神の言葉を否定しているのはあなた方の方ですよ。わたしら無神論者の方が神の言葉をリスペクトしています。

 

・・アラビア半島から多神教が完全に消えたのは偶然ですか?

 

 

 

おまけにイエスの言葉

右頬を打たれたら、左頬も差し出しなさい(マタイ5:39)

「あなた方も聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい(マタイ5:44)

 

剣とともに生きる人は剣とともに死ぬ(マタイ26:52)