交流(2)

 

もうひとつシャルム茨木に住んでいる野村さんの義理の娘さんの体験です。日本にはたくさん体験があってどれを書いていいか迷ってしまう。

彼女の夫はあまり働かなかった。親も困っていた。彼はトヨタのレクサスを買ってくれれば頑張って働くといった。親は彼にレクサスを買って与えた。彼は毎日それに乗って働きにでかけた。ところが、或る朝 乗ろうとしたら車がない。盗まれたのだ。市営団地に住んで団地の青空駐車では、あの車は目立ちすぎた。夫はショックでまた働かなくなった。お嫁さんはとても熱心なメンバーだった。彼女は一ヶ月で必ず探し出して見せると決意した。毎日題目をあげては自転車で探しにでた。もうすでに30日が経過していた。それでもあきらめてはいなかった。最後の31日目、彼女は 同じ市、吹田のダイエーの駐車場でとうとう夫のレクサスを見つけたのだ。もちろんナンバーは変わっていた。警察と夫に電話をしてすぐ来るようにいった。ところが、その車の持ち主が店から出てきた。車に乗ろうとすると 彼女はちょっと待ってと絶対車に乗せない。 持ち主はお前を警察につきだしてやるとののしる。彼女は何度も何度もタックルしてしがみついて彼を車に乗せない。彼らの周りは人だかりになった。彼女はもし夫の車でなかったら大変なことになるだろうと思ったが、その車の持ち主がはめている指輪はまぎれもなく彼女が夫にプレゼントしたものだった。夫が車に置いていたのだった。彼女は抵抗して頑張りぬいた。とうとう警察と夫が駆けつけた。私は聞きながら、もしその車が他県に売られていたら絶対見つけることはできなかっただろう。「一念三千」とはすごいと思った。父親は自分がレクサスに乗ると言って息子から車を取り上げた。子供を甘やかして育てすぎだ。

 

この頃だったと思う。私はNHK特集で、アメリカに奇妙な病気がはやりはじめているのを知った。其の頃は同性愛者がかかる病気で、セックスでうつるという。なんだろう怖いと思った。それが今のエイズとわかるまでには時間はかからなかった。

私はこの病気で、アメリカの快楽主義は少し治まるだろうと思った。私がいた頃のアメリカは、夫婦交換、乱交パーティ、だれもかれもセックスしないと損のような雰囲気で理性や知性や教養のある人達まで巻き込まれていっているようだった。私はこの国は快楽主義のために滅んでいくのではないかとさえ思っていた。もちろん私はエイズを肯定しているのではない。あの悪魔のような帝京大学の安部教授の実験の犠牲になった血友病の人達はほんとに気の毒だと思っている。というより怒りを感じている。まして彼が無罪なんてとんでもない判決だと思った。

 

娘の幸子や江美は、私から片時も離れない子供だった。特に江美はひどかった。階下にごみを出しに行くのまで二人で付いて来た。どこに行ってもぴったしついてきた。朝から晩まで365日、これが8年も続けば、ほんとに疲れてくる。江美は一年間私立の幼稚園に入園させた。夫は私が入れたいのだから金は出さないといったので、私はお義母からもらったお金を使った。朝からお昼にかけて幼稚園に行ってくれるので助かった。二年目は公立の福井幼稚園に入園した。授業料が、私立に比べて1/3だしなんといっても子供を自由に遊ばせてきめ細かに指導してくれる。江美も園についたら体操服に着替えてお遊びなので前の幼稚園とは段違いに楽しいと喜んでいた。幸子もこの福井幼稚園を卒園した。ほとんどが私立の幼稚園に行くので19人しか園児がいなかったが、江美のときはどうしてもということで、私がPTAの会長になった。責任が重く、行事が多くて大変だったが、終わってみれば、自分に自信がついていた。

 

 私が37歳になったころ、前夫の会社が、2,3年前にアメリカのジオンカーバイドと業務提携していた。前夫は理科系出身で、天然ガスに関しての知識もある彼も一緒にそのチームで働いていた。一人ニューヨークに社員を送ることになるという。私はその話をきいて是非行けたらとほんとうに望んだ。今こそ題目をあげるときと2度目の百万遍の題目に挑戦した。そして結果はどうだったか。彼の後輩が、選ばれて駐在員としてニューヨークにいった。私の落胆は激しかった。私は腰が抜けて、歩けなくなった。ほんとに立てないし歩けないのです。寝込んでしまった。夫は私がなぜそうなったか全くわからなかった。私たちは子供達のことや地域の行事のことなど必要なことだけしか話さなかった。私は夫婦とはこんなものではないと思っていた。ただ私は娘達を育てる義務があるから一緒にいただけだった。彼は自分の両親が、全く会話がなく、義父が何かを話しても義母は「そうじゃのう、そうじゃのう」とあいずちを打つのみだった。逆らえば怒り出すため仕方ないわけで、心などまったく通じていない夫婦だった。彼にとってそれが、普通の夫婦だと思っていたから違和感を感じてはいなかった。義父母夫妻と私たちと違っていたのは義母が経済権を握っていたこと。彼女の実家も裕福だった。皆によくおこずかいを上げたり、人に惜しみなくお金をあげる人だった。義母はほんとにいい人だった。

私は這って家事をした。あきらめて気を取り直すと三日で治った。

 

 私の願いは叶わなかったけれど、私の実家では、最高の朗報があった。 母の病気はよくなったり悪くなったり、相変わらずだったが3年ほど前は,這ってしか移動できないくらいに悪くなった。そこへ近所に川口さんという人が引越ししてきて母の地域のブロック担当になった。彼女はとても信心強情な人だった。実家に来て毎日母と勤行題目を共にした。母は横に寝ながらしかできなかったが、彼女に付いてした。母は勤行、唱題を始めて3ヶ月もたったころから病気が回復しはじめ一年もたったころにはすっかり良くなった。それからはずーと勤行唱題を続けていた。弟は、父の借金を返し終わったけれど、もう貯金も底をついていた。店で商品を売るぐらいでは家族で食べてはいけなかった。父は兵役時代と店を経営していたときの厚生年金をもらっている。その上、弟が父の借金を返済していたにもかかわらず、家には少ししかいれず、自分で使っていた。家賃も払っていかないといけない。これからどうしたらいいかと思っていたとき、或る不動産業者の人が尋ねて来てこの国道25号線沿いのこのあたりの土地をほしいといっている人がいる。ついては2軒ほどくっついているこの家に住んでいる権利として5千6百万円払うという。時はバブル全盛時代だった。誰も彼も土地をほしがった。何件かの家も皆立ち退いた。家も土地も自分のものでないのに31年間住んだ権利でこの高額な立ち退き料を払うという。弟は一も二も無く承諾した。そして代わりの家を見つけようとした。これがまた大変だった。大阪や神戸では高すぎた。やっとみつけたのが、明石にある店舗付き住宅だった。そして以前は肉屋さんだったのを、作業服と紳士卸服店に改装した。それでほとんどのお金がなくなったが、なにしろただで手に入れた家だった。本当に福運だ。私はずーと実家のことを祈り続けて題目も送り続けていた。私の題目はこの幸運を運んでくれたのかもしれない。それを聞いた私はほんとに飛び上がらんばかりに嬉しかった。家さえ自分のものであれば、後は彼らの年金で、なんとかやっていけるのではないか、それに、ふっと、これで私は後ろ髪をひかれなくてアメリカにいけると思った。弟がいうにはその人がなぜ、あのあたりの土地をほしがったのか、いまだにわからないという。

 

この朗報は明石に家を探して買った段階で私は弟から聞いて知った。親が満智子には黙っておけと弟にいっていた。満智子に話して妬まれてお金でもせがまれたら困ると思ったらしい。私はとてもがっかりした。私は貧乏節約生活に耐えていたが、親に泣きついたり頼ったことなど一度もない。実家も貧乏な上、弟が父の借金を自分の事故の慰謝料から払っていて、もうそののお金が底をついていたのを知っていた。私は少しでも実家の足しになると思って、母が持ってくる服やペンダントや指輪を買っていた。もっとも母は目利きのある人で服のセンスなどは素晴らしくよかったので買っていたのですが、でも父は私が自分と同じ人間だと思っていた。もう一つ誤解をうんだのは、私が夫の勝手な言い分を私のわがままのように両親に言い、両親の勝手な言い分を私のわがままのようにいって、自分が悪者になることで、両者の関係を保っていた。私は損な役回りを演じていた。そうしなければ溝ができるのはわかっていた。ともあれ、私が実家の幸運を飛び上がらんばかりに喜んで、御本尊様に感謝の題目をあげたとは彼らは夢にも思っていない。

 

私は「引越しするとき朝から手伝いにいくよ」と 母に電話をかけた。母は業者の人に頼むから手伝いはいらない」といったので「それじゃ見送りだけでも行くよ」といった。その日は母のお兄さんも見送りに来ていた。この叔父はとっても出来た人で、なにかと実家のことを気にかけて心配してくれている。 「どうしてまっちゃんは親の引越しを手伝わない」と母に言ったらしく、後で、母は私に「あんたが手伝わないから私が恥をかいた。」と怒って電話をかけてきた。自分が断っておいてこの調子だ。母は私が親戚の集まりに出席するのをなぜか嫌がる。母は母方のわたしの従兄弟、皆が集まるからまっちゃんもと呼ばれても私に連絡をしない。母は勝手に私は出席しないと断っていた。父の兄弟つまり私の叔父達が亡くなっても連絡がなかったので、わたしは誰のお葬式にも出席していない。結婚式には出席してもらっているのに、後で弟に聞いてわかる。ほんとに不義理なことです。

 

 1989年11月9日 皆さんはこの日が、何の日か知っていますか? 世界の歴史を変えた日 ベルリンの壁が崩壊した日です。私は感無量の思いでニュースを見ていた。ただもう心の底から嬉しかった。ミカエル、ゴルバチョフ氏が、ベルリンの壁を壊せと東ドイツの首相に命じた。これで東西冷戦は終わる。「やった!」世界が核戦争で滅びる危険性は遠のいた。涙が出るほど嬉しかった。

 ソビエト首相ゴルバチョフ氏が、首相になるまでに、3人の首相が相次いで亡くなった。不思議だなぁと思っていた。そして若く見るからに人間性の良さそうなゴルバチョフ氏が、ソビエトの首相として現れたとき ああ東西冷戦は終わる池田先生の平和への一念が、ゴルバチョフ氏を呼び出されたのだと思った。1970 年はじめ中ソ対立が一段と激しくなったとき池田先生がいち早くソビエトに行きコスイギン首相と会談した。ソビエトは中国を攻めないという意向を聞き、「それは約束できますね。それを中国に伝えますよ」と池田先生は念を押した。そして次はまだ誰も行っていなかった国交のない中国に池田先生が訪問し、「ソビエトは中国を攻撃する意向は無い」と伝えた。周恩来首相とも会談された。世界戦争に発展するかもしれない危機を民間外交で見事に回避された池田先生は現代の坂本龍馬だ。こんな重要なことを日本人は知らない。ちょうど此の箇所を書いているときテレビの大河ドラマで「龍馬伝」を見ていた。

 ゴルバチョフ氏と池田先生は親友みたいな仲だ。池田先生は何百という世界中の識者と交友関係を持っておられる。ゴルバチョフ氏は何回も日本に来られた。池田先生に会いに、でも日本の新聞やテレビはゴルバチョフ氏のスケジュールを載せても池田先生との会談や池田先生の名前は一切載せない。日本は小さく凝固まった人間ばかりの器の小さい国なのだ。

 

これを書いた一年後ゴルバチョフ氏は80歳の誕生日にロシア最高位の国家勲章が贈られることが決まった。本当に嬉しい。彼は自分の利益よりもロシアや世界を守ったのだから正当な評価だと思う。