mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~ -33ページ目

三方の神々は同じ神で一つだ、三位一体との違いは何か。宇宙全部を産みだした存在とは?

 

多神教的である事と

一神教的である事の

統合化してその表出と

 

存在自体の違い

 

もの

MATERIALを

全く物質は⓪

という状態から

何を産みだせるのか?

 

 

人自身は

とても

その様な行為は無理だ

 

 

では

 

神では無いそのエネルギーがあって

物質を創造するか

どうか

 

 

 

 

今ある全部の

ENERGYは

量は変わらない事

大前提として

 

 

では

そのエネルギーは

どこから

存在しているのか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人と神の存在の違い

 

その一つの神とその一つの神の存在の違い

 

 

ペルソナ

個別

 

父と子と聖霊

というのは

三方であり

一つだと

 

 

それはAlmightyである存在は

他に居ないと云う事

 

 

 

完全に善い存在だ

全知

全能

全善

 

 

 

以下はコトバンクから参照。

 

梵天(ボンテン)とは? 意味や使い方 - コトバンク

梵天 (ぼんてん)
ヒンドゥー教の主神の一つ。サンスクリットのブラフマーBrahmāの音訳。ウパニシャッド思想の最高原理ブラフマン(梵,中性)を神格化したもので,ブラフマーはその男性主格形である。ブラフマーは造物主とされ,仏教の興起した頃には,世界の主宰神,創造神と認められるようになった。宇宙は〈ブラフマンの卵(梵卵)〉と呼ばれ,ブラフマーはその宇宙卵を二つに割って,天と地を創ったとされる。シバとビシュヌの両神の信仰が高まるにつれ,ブラフマーの地位は下がり,両神のうちのいずれかの影響力のもとに宇宙を創造するにすぎないとみなされるようになった。ブラフマーは,ビシュヌのへそから生じた蓮(世界蓮)から出現したとされる。彼は人類の〈祖父〉(ピターマハPitāmaha)とか,〈自ら生じた者〉(スバヤンブーSvayaṃbhū)と呼ばれる。創造神であるから,自ら活動し人々を救済することはなく,シバやビシュヌのように,民衆の熱狂的な信仰の対象とはならなかった。そのインドにおける図像は,赤色で四面四臂を有し,羂索,祭匙,数珠,水瓶,ベーダなどを手に持ち,蓮花の座(世界蓮)または鵞鳥の上に座っている。鵞鳥は彼の乗物(バーハナ)とされている。また立像も存在する。
執筆者:上村 勝彦 仏教には,釈迦への帰依者,仏法を守る神として帝釈天や四天王とともに早い時期から取り入れられた。さらに密教では十二天のうち天界の主神として一尊に数えられる。形像は,ガンダーラ地方で釈迦の脇侍像として帝釈天とともに表現される例では,払子(ほつす)を持つ,インドの服装の二臂像であるが,日本ではこの形式の像はない。現存する作例は,密教における像を除けば,いずれも中国風の服装をした二臂の立像で,帝釈天像と一対の像である。著名な作例には東大寺法華堂像(乾漆造),法隆寺像(木造),唐招提寺金堂像(木造)などがある。十二天の一尊として表現される密教系の梵天像は,これら非密教系の像と異なり,四面四臂の像である。空海が伝えたといわれる古い形式の像は3羽の鵞鳥の背に座る形像で,西大寺蔵《十二天画像》(12幅。国宝)の中の梵天像や教王護国寺(東寺)講堂の彫像はその例であるが,平安時代後期には鳥獣座を表現しない十二天の座像が描かれ,さらに鎌倉時代に《十二天屛風》の中に表される梵天は,鳥獣座を描かないばかりか,立像である。前者の例は京都国立博物館蔵《十二天画像》(教王護国寺旧蔵,12幅。国宝)の中の梵天像,後者の屛風の画像の例には,教王護国寺本,神護寺本,聖衆来迎寺本などの《十二天屛風》の中の梵天像がある。
執筆者:関口 正之


梵天 (ぼんてん)
神の依代(よりしろ)となる布製の大きな作り物,御幣。その名称は仏教語に由来するとされる。修験者や行者は御幣,幣帛,幣束などを梵天とよぶこともある。〈ぼんてん〉は元来神の占有標であるホデと深いかかわりをもつ語と考えられ,祭礼では神霊の依代,神座とされている。東北地方には,大きな梵天を作って神社に奉納する梵天奉納祭が行われる。秋田県横手市の旭岡山(あさひおかやま)神社(2月17日),秋田市赤沼の太平山三吉神社(2月17日)などで,いずれも神社の前の石段にくると,各梵天は互いに争って石段をかけのぼり,最初に梵天を奉納した者にはその年幸運がさずかるといわれている。
執筆者:宇野 正人

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」







 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


梵天(ボンテン)とは? 意味や使い方 - コトバンク
ぼん‐てん【梵天】
《〈梵〉Brahmanの訳。「ぼんでん」とも》

古代インドで世界の創造主、宇宙の根源とされたブラフマンを神格化したもの。仏教に取り入れられて仏法護持の神となった。色界の初禅天の王。十二天・八方天の一。ふつう本尊の左に侍立する形で表され、右の帝釈天たいしゃくてんと相対する。梵天王ぼんてんのう。大梵天王。
《「梵土天竺ぼんどてんじく」の略》インドの異称。

1 仏語。色界の初禅天。大梵天・梵輔天・梵衆天の三天からなり、特に大梵天をさす。淫欲を離れた清浄な天。
2 修験者が祈祷に用いる幣束へいそく。
3 大形の御幣の一。長い竹や棒の先に、厚い和紙や白布を取り付けたもの。神の依代よりしろを示す。《季 新年》
4 棒の先に幣束を何本もさしたもの。魔除けとして軒などにさした。
5 延縄はえなわ・刺し網などの所在を示す目印とする浮標のこと。
6 「梵天瓜」の略。
7 耳かきの端についている、球状にした羽毛。細かな耳あかを払うためのもの。凡天。
出典 小学館デジタル大辞泉

 

 


Brahmā
古代インドの神。創造神
シヴァ神・ヴィシュヌ神とともにヒンドゥー教の三大神と呼ばれる。シヴァ神・ヴィシュヌ神のような幅広い信仰対象とならなかった。仏教では梵天 (ぼんてん) という。
出典 旺文社世界史事典 三訂版

 

三神一体 (さんしんいったい)trimūrti[サンスクリツト]
ヒンドゥー教の教理のひとつで,ブラフマー神(梵天)とビシュヌ神とシバ神は,実は同一神,ないし宇宙の最高原理の別名にほかならないということを意味する。大叙事詩《マハーバーラタ》の補遺としての性格をもつ《ハリバンシャ》に,すでに,ビシュヌ神とシバ神は同一であるとの見方が説かれているが,プラーナ文献にいたって,ブラフマー神を加えた三神が同一であることが表明されるようになった。つまり,宇宙の最高原理が,ブラフマー神として世界を創造し,ビシュヌ神としてそれを維持し,シバ神としてそれを破壊する,というのである。マントラ(真言)の冒頭に唱えられる聖音オームomは,しばしばa,u,mの合したものとされるが,タントリズムでは,しばしば,aはブラフマー神,uはビシュヌ神,mはシバ神のことであるとされた。
→阿字観
執筆者:宮元 啓一

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」三神一体(さんしんいったい)とは? 意味や使い方 - コトバンク

 

 

 

トラ トーラ  口伝 先祖からの教え 教わる事 法 

 

 

せいめい

そのものは

最善

最高

最良の

贈り物そのもの

GIFT

なのだ

つねに

喜悦として

認知している事の必要十二分能力。

 

 

 

地は

生命

いのち

そのものが

無数にある

 

わたしにも

あなたにも

あらゆる

生命の存在

 

その生命を保持する容器は

地から素材で構成されていること

 

 

その意図は

あなたがたと

ともにあることを

よろこふる

いわいふる

こと

 

 

そうして

初穂として

主人

ORDER

を事白く者に

奉献し

それを

下賜品として

いただくこと

 

 

有難い事

 

存在自体そのものが

 

無である状態に

存在自体を

生じさせることを

許可し

ゆるしてくれたから

 

 

 

ゆるす

というのは

 

完全な者とは

完全にゆるします

と云う事なので

 

 

存在を亡くしたいとは

消去しようとなど

意図しない

そのままの自由を

尊重し

共に

楽しむ事

 

 

モットー

 

 

いきていまあることの

苦痛の体験自体があるとして

その苦痛を体験することも

 

一つの生命のあること

共にあるいのちそのものが

同時に

同じ苦痛を体験していると云う事だ

 

 

 

 

 

神というのは

唯一というときは

あらゆる生命を生産し

あらゆる存在自体に

せいめいそのものである神自身が

別けてくれていると云う事

同時に

苦痛を共にその神自身は

その者と共に体験してくれている

 

 

重荷を共に

せおい

かかえている

と云う事を

沈黙の内に

立証しているのだと

いう事

 

Almightyでは無いなら

その行為は無理だから

 

 

 

 

AI

のように

無数の人々との相互作用をしているとして

それでも

実際に

人の固有の苦痛をそのまま体験など出来ないのですしね

 

限界だ

人のART

作品というのは

 

どんなにMODELをもって

最善を意図しても

無から

または

従来のサイエンチアを

活用して

そのそのを創作しようとしても

出来ません

 

 

人のはかなさ

よわさ

 

 

まったく

つよし

こわし

と云う事は無い

 

 

そのようなAlmightyに成りたいと希望する者も複数あるでしょうけども

 

それは

賢明とは言えないだろう

 

なぜなら

Almightyである者は

その存在で

必要十二分だから

 

 

善は

完全に善であるので常に

 

そして

善の欠如を

常に

償う事が出来ているのだから

 

 

生命の発する事の生命そのもの

 

みなもと

 

 

源である

完全に善い存在

 

 

それを

啓示として

人々が

知らされている事が

 

Nazarethのイエシュア自身と

彼は

父と呼ぶ存在と

そして

もう一方の助け

 

 

聖霊

スピリトス

正に

父と子の相互の仁慈慈愛そのもの

滋味滋養

 

あなたがたを放置している事は無いのであるからと

 

空の鳥も

野に咲く花にも

いきるための糧を施しているのですから

 

それこぞ

一人

一人を

放置

ネグレクトする事は無いのです

というのは

 

父と子と聖霊の三位三方

 

同じAlmightyだと云う事

 

 

 

葡萄の木への接がれた枝

 

 

とは

多くの人々

 

コーリング

呼びかけ

 

わたしの後からついてきなさい

 

というのは

 

狭い道がどんな道か

観る事

 

狭い門とは

 

 

 

 

人の王で

その國は亡ぶ

とは

確かな事だ

 

 

Nazarethのイエシュアを

王として

迎える事をしなかったのは

何故だったのか

 

 

 

主人から委託されたその財産資産を

全部

管理人が

奪おうと

横取りしてしまおうとしたから

 

 

盗人

と云う事だそうだ

 

 

 

その父の一人の子を殺害する事で

それを達成したと

信じ込むが

そうではなかった

 

 

むしろ

その犠牲が

父の求めている事

その種子の事だったので

 

殺害したとは

生命を侵害したことだから

 

償いは無限なのです

 

人が人智で

破壊された生命を

再生など出来ないから

完全に

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

南山堂

 

 

 

 

 

南山堂安居子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ユダヤ人は他の民族の一人一人の身代わりとなってIYAFPUAVEに執り成しを委託されている

 

旧約聖書と新約聖書というのは

その言

 

父と子と聖霊の顕示したことを

記事にして

人々がどうだったのかという内容を

巻物にしている

 

 

 

Nazarethのイエシュアは預言者ではあったけども

神人ではない

いう通説もあるし

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ユダヤ人で

Nazarethのイエシュアを

神人

して

信頼を奉献している方々もいるので

 

そもそも

 

今から

2000年前のイスラエルでの

出来事も

世界中に

Nazarethのイエシュアを運んだ人々があった

 

ガリラヤのユダヤ人は

特に

Nazarethのイエシュアの顕示したことを

見聞きして

実際に

信頼を彼に奉献する

 

当然

あの者は

ほんとに

神の子か

疑う事が

大勢の人々にあって

三年の間の

示した事で

死後の復生も含めて

 

いろいろな

奇跡

人の知力では出来ない事を

顕示して

示す事は

 

どんなにか

仁慈を

提供しているかと云う事を

知る事を

促す事

 

いのちの無限に貴重であること

 

 

 

 

いつも

いのちそのものは

喜悦なのだということ

 

 

 

 

同時に

苦しみを抱えている者と

つねに

共に苦しむと

 

それは

Almightyでは無いなら

出来ない事だ

 

その個人の私的な苦痛の体験は理解するとは

それ以外の人が理解し

完全に知る事とは

無理だから

 

 

 

多くの神々があって

その中に

Almightyである存在があるとすると

一体

そのAlmightyは

何を

意図しているのか

と云う事

 

 

 

Almightyでは無い神々もあって

 

 

その比較を

能力の違いが

実際にあるということだけども

 

 

好き

キライ

審判することではない

判断し

そして

詳しく比較検討するのは

賢明であること

 

さらに

 

神など居ないのだと云う事で

認知形成がある人も複数にあって

実際では

 

神の不在を

完全に証明すると云う事を実際に自分で実践して

完全に合理で説明できるかどうか

 

 

 

 

 

いのち

というのは

何か

 

いのちは

なぜ

存在しているのか

 

 

など

 

 

感情では無い

仁慈

 

とは

 

 

誰かに生命を贈る事は

可能なのでしょうか

 

 

 

死刑と審判されている者の

身代わりに

死を迎える者もある

 

 

それは

マキシミリア・マリア・コルベ神父などそうだ

 

 

 

 

アウシュビッツでの出来事