mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~ -32ページ目

生きる事の支援を提供するセンター 寺院 祈る事はその支援し働く者の自覚を強く促す事 仁慈

『日本最古の官寺』聖徳太子ゆかりの四天王寺に行ってみた | 創建から1400年 - Yahoo! JAPAN

 

 

 

以下はコトバンクから参照。

 

世界大百科事典(旧版)内の悲田の言及
【福田】より
…田に種子をまくと収穫があるように,仏,僧,父母,貧窮者などに布施すると,未来に功徳が得られるとして,布施する対象を福田といった。三福田(敬田,恩田,悲田)とか八福田など,その数え方はさまざまであるが,なかでも重要なのは,苦しみ悩む者(悲田)の救済事業であって,悲田養病坊,悲田院などが設けられた。また橋の建設,義井の開掘など諸種の社会事業も,この思想に基づいている。…

※「悲田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)



 

ある人は自分こそ偉大な者の存在の末裔だとして英雄自認、ゲームで負けた事で操縦されている者たち

ある人は自分こそ偉大な者の存在の末裔だとして英雄自認、ゲームで負けた事で操縦されている者たち

 

媒体

MEDIA

 

何か?

 

 

自らを統制する事の意図とはどこにあるのか

自由のその意義とは

 

GAMESYSTEMにあって

参与して

その参加者の一人一人に臨するときに

何をするか

意図するか

 

 

地上にHEAVEN

 

 

 

完全に善い方と共に在る事は

天国であるのか楽園であるのか

 

 

 

 

IYAPHUEAVE

 

 

至福直観

 

 

 

地上では

完全に至福直観とは成りましたと云う事は無いですから

 

そもそも

地上に楽園を構築すると云う事は

前もって

IMAGEする事の

訓練となるだろうか

 

 

 

 

楽園

 

実際に

天国から

地上に戻って来た者はいない

 

 

 

でも

地上には

天国から

派遣されてきたんだと

自分で主張する人々もいますしね

 

 

ほんとかな

思う事は

当然なのです

 

 

 

 

楽園

安樂

そのもの

 

 

 

 

神殿

 

それは

人自身だと

パウロ

 

サウルさん

ベンジャミン族の人が

そう記事したと記載されている

 

 

 

天国とは

Nazarethのイエシュア自身だと云う事だ

 

迎える

 

地上で再来を迎えるとは

 

聖体拝領

 

行為としては

 

迎える事

 

自分の腹の奥の奥に

真っ暗な腹の中に

 

マリアと共に

迎えるという方法がある

メソッド

 

これは

フランスの貴族で司祭である

グリニョン・ド・モンフォール

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

善意と云う時は、審判しない事、なぜならば、善い事はそのまま善いから。

善意と云う時は、審判しない事、なぜならば、善い事はそのまま善いから。

つまり

生命そのものと

存在自体そのもの

そして

生命と共にあるその人自身と云う事

 

 

三つは統合化して一つだ

その固有

無限に固有である

存在自体に肉体と生命と共に在る事のそれ自体が

完全に善い事そのもの

 

 

 

ゆえに

 

喜悦

そのもの

生命と自分という存在は共に在る事

 

 

UNIQUE

 

正に

わたし

でも

でも

 

亞あっし

 

あたし

 

わたし

 

我手子

うわたし

 

 

私は私以外

どこにも無い

今も

これからも

 

時は関係ないと云う事

 

存在した事であるから

 

 

唯一無二である事は

自明だ

 

 

それは善い事そのものであることを

自覚する事

 

自己覚知

 

 

 

何か

気が付く事とは

 

 

 

存在そのものは

自分で

メイキングは出来ない

 

こんな人間であればよかったなあとか

こういう人間になりたいなと

いうのは

属性

性質を

何か私的にその人は好む事であるから

 

 

存在自体=喜悦

とは

関係しない事

 

 

 

永遠に喜悦は喜悦なのですと

云う事

 

 

多くの人々の中には

 

その者自身の事を

存在したくない

自らのIMAGEとは違うからと

自己存在はあるが

全部否定し

拒否して

行為を積み重ねてる者もある

 

複数

 

その方は

 

存在自体をどう認知するか

 

 

受け止めるか

 

 

 

自己存在そのものを

と云う事

 

 

 

 

誰かの物を欲しがる

盗むとか

 

妬むとか

嫉みを表現するとか

 

それは

何から

そうして行為を選択するのだろうか

 

 

 

誠実

荘厳

セレモニー

 

 

 

自分で自分の存在を

意図して

DESIGNして

存在自体を生成する事は

出来ないのだから

その能力は

人には無い

そもそも

はじめからおわりまで

 

 

 

では

苦痛体験とは

何か

 

いろいろな苦痛がある事

 

 

 

自分で

憧れている何か

とか

 

人の気持ちを得たいとか

 

 

そういう意図は

無いだろうか

 

 

 

自が今存在している事への

有難いという

感謝

賛美はあるだろうか

 

Gratia

 

 

メルシー

 

 

 

授かったもの

 

自己所有のものか

 

 

 

 

物理的な現象でその結果の発生ではあるけども

 

 

 

 

 

 

 

 

仁慈

とか

慈しみとか

 

慈愛とか

 

真心とか

 

 

そういうものというのは

一体

何でしょうかね

 

 

 

 

生命が共に在る事を

侵害してしまうことを

意図するのは

どういう事なのでしょう

 

 

マルトリートメントを生産しているとするなら

なぜ

その意図を保持する事なのか?

 

 

 

大切

大事

丁寧に世話を提供して

CARE

 

心身の機能に支障があるとしても

ココロの中にある傷というものがあって苦痛を積み重ねる体験を積んでいるとしても

 

 

 

 

自己も

他者も

どんな状態にあっても

無限に貴重で

存在自体

喜悦そのものだ

という

意図した

認知形成のメソッドは

どうだろうか

 

 

 

 

 

 

自由

 

何か

命令されて

操作され

 

操縦されて

 

偉大な権威をもって

ORDERされているとかいう

そういう束縛の行為の想起では無い

 

 

存在自体を

詳しく観るために

そのまま

汚れ無い器で

皿で

受け止める事を

通じて

 

観る事

 

観察する対象を

 

 

 

 

 

 

 

行為の一つ一つとして実践を積み重ねる事

 

 

merit

 

 

 

世界には

いろいろな

神話とか

ある部族の誉れの物語などありますけども

 

人々の

ROOTSのようなそれぞれのものを語り継がれてきた文書など

巻物とか

 

 

 

偉大なものだとか

いろいろあるんだけども

 

 

それぞれの力の振る舞いがどうであるのか

と云う事を

知る事も重要な事の一つ

 

 

 

とは

一体

どういう事なのか

ビクトリー

とか

 

 

負けるとか

一体

どういう事なのでしょうか

 

 

 

人々にある戦争は

 

総力戦であったりしますし

 

生き残る者と

死に行く者があるし

いろいろな境遇をその者自身に送る事になる

 

 

戦争で勝った者たちは

戦争で負けた者たちを

奴隷にして

捕虜にして

そして

勝った者たちの

意向をどこまでも

命令してくることもしばしば

 

 

 

 

Nazarethのイエシュアは

奴隷として人を操作する事は

望まない

 

しかし

人自身が

奴隷にならされたときは

 

 

その主人の完全に善い状態を得るために

その奴隷の状態を担っている者は

父と子と聖霊の三位に

マリアを通して

奉献

つまり

全部

神自らに

委ねる事を

求めている

 

 

そもそも

 

父と子と聖霊は

完全に善い主人そのものだから

という理由があるから

 

 

 

執り成し

というのは

一念

一言で

完済します

 

 

ということ

 

委託とは

完全に善い方を理解して

その方に

あらゆる存在を

任せる

保護

仁慈あるそのものを

贈る事だと云う事

 

 

その委託する行為は

一念で可能だし

何も難しくない

 

 

 

真に偉大な存在なら

そうするでしょう

全部善い事を

そのものを

贈る事

を違う事は無いので

 

気が付く事が要となる事だ

 

 

 

 

 

 

 

南山堂安居子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

南山堂安居子