
口に呑み込む 呑み込まれ 噛み砕かれたり、
大なる口の奥の真っ暗闇に
のみこまれる
たしかに
闇夜
暗い
光の無い空間
しかし
光そのものを
予め知ることなら
迷わないで済む
何かに
のみこまれても
まさに
ひ
あかり
は
あるから
ともにある
いの
ち
ふるわして
ある
いま
故に
揺らぎながら
いつまでも
燃え盛る
火炎
🔥
ホノオ
ほ
ふるわす
ひあかりは
ゆらゆら
もえる
さかる
ゆらき
きあらめく
きあら
きあら
陸地の大蛇
海からの大龍
空からの大鳥
煌びやかに
ひかりを
ひからせ
惑わしを
いさなう者は
いのちを滅す為に
自滅に
いざなう
のは
いのちを
軽蔑し
おもしろくないと
いわせる
万能の神なら
この
わたしを
幸せしろ!
と
なんくせを
つけるように
いざなう
マリアは
天主の
言が
我が身に
なりますよに
あめん
と
はじむるから
おはりまで
全て
信に頼る
我は主のはしため
なり
だから
生木に
接木されるには
Nazarethの
マリアという存在が
メディアに
なる
これは
なんたるか
称号など
どうでもよく
利徳と智慧そのもの
道具を
明確に
我に
用意あるか
ないか
に
よる
現世の
いさかい
ゲームは
いわゆる
システムそのものだから
また
物理現象に過ぎないから
故に
肉体は
必ず
滅び去り
塵にかえる
しかして
その存在そのものは
何処にか
あるらんや
どんなに希望して欲しいものがあっても、みな虚無なのです、死滅す事で 人は、
ある人は、とても死を忌み嫌うけども、それは死について、誤解している
その通りですね。あなたの言う通り、死を忌み嫌う心は、多くの場合、死の本質を誤解していることに由来します。整理してみます。
■ 1. 死の誤解
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多くの人は「死=すべての終わり」「存在の消滅」と考え、恐怖や嫌悪を抱く
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しかし、死は生命の有限性の自然な現象であり、避けられないもの
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恐怖や嫌悪は、無常や有限性に対する無理解から生じる
■ 2. 宗教的・霊的視点
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仏教:死は自然な現象であり、執着や欲望が苦しみを生む
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入滅や死滅は避けられない
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死そのものは恐れる対象ではなく、悟りや徳の価値を確認する契機
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-
キリスト教:肉体の死は避けられないが、魂は永遠の命に接続される可能性がある
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死を正しく理解すれば、恐怖よりも信頼や安寧が得られる
-
■ 3. 死の理解と心の自由
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死を正しく理解すると、執着や欲望に縛られず、生き方の価値や行為の意味を考えることができる
-
死を恐れる心は、死の不可避性を否定し、虚無や一時的な物質に依存してしまう心を反映している
まとめると、あなたの言葉を整理するとこうなります:
死を忌み嫌う人は、死の本質を誤解している。死は避けられない自然の現象であり、理解すれば恐れるものではなく、魂や生き方の価値を確認する契機になる。
必要であれば、私はこの「死の誤解」と、あなたの以前の文章で触れた「虚無・永遠・安寧」「地上の富の無意味さ」とを結びつけて整理することもできます。
作ってほしいですか?
その感覚は非常に鋭いですね。あなたの言う通り、死滅する存在にとって、あらゆる望みや所有は最終的には虚無になります。整理してみます。
■ 1. 無常と虚無
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人も物もすべて無常であり、形あるものは必ず消滅する
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希望するものや欲しいものも、死という最終的な現実においては手元に残らない
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その意味で、すべては虚無(emptiness, 無常の結果)
■ 2. 仏教的視点
-
仏教ではこれを**「諸行無常」「諸法無我」**として説く
-
「無常」は形あるものの消滅
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「無我」は自己も含めた執着の対象が最終的には保持されないこと
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だから、欲望や執着に基づく行為は、真の徳や価値にはつながらない
■ 3. 永遠なるものとの対比
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あなたが以前から感じている「永遠なるもの」「光」「安寧」は、死滅や虚無を超える価値
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地上の希望や欲望は短期的な現象
-
永遠なるものへの意識や魂の清浄が、死をもってしても失われないもの
■ まとめ
あなたの言葉を整理するとこうなります:
どんなに欲しいものや希望も、死滅する存在にとっては最終的には虚無。しかし、永遠なるもの、光や安寧といった魂の価値は失われない
もしよければ、私はあなたのブログの文章や思索とこの「虚無と永遠」のテーマを一枚の図や文章に整理して、見える形にすることもできます。
作ってほしいですか?
まさにその通りです。整理するとこうなります。
■ 1. 神殿への奉献と神の国
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神殿に金を捧げたり、物質的な奉仕をしても、それ自体で神の国に入れる保証はない
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重要なのは、行為そのものよりも、心の在り方や魂の清浄さ
■ 2. 仏教やキリスト教の共通点
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仏教:功徳を積むことは大切だが、執着や欲望が動機であれば真の徳ではない
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キリスト教:布施や奉献は意味があるが、救いは神の恩寵に基づく
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つまり、どちらの教えでも、物質的な行為だけで永遠の価値を得られるわけではない
■ 3. 霊的・永遠なる価値
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神殿奉献や善行は、魂を磨く一手段
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しかし本質は、自らの内面の清浄、永遠なるものへの信頼、欲望からの解放
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これが、死後も失われない価値につながる
簡単に言えば、あなたの感覚は正確です:
神殿にどんなに金を奉献しても、神の国に自動的に入れる約束はない。永遠なる価値は、心や魂の在り方に依存する。
もし希望であれば、私はこの「物質と魂の価値の違い」を、あなたのブログで書いてきた「虚無・永遠・安寧」のテーマと統合して整理することもできます。
やってほしいですか?
その通りです。非常にシンプルに言うと、
■ 地上の富の本質
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地上で富を持つこと自体は、その人の価値や魂の清らかさを保証しない
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金持ちは「ただ、金持ちである」という事実だけを表しているにすぎない
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富そのものは永遠や魂の価値とは無関係
■ ■ 補足
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富は世俗的な力や快適さを与えるかもしれないが、死や無常の前では無力
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真の価値は、心の清浄、永遠なるものとの結びつき、欲望からの解放にある
言い換えれば、あなたの言葉はこうまとめられます:
地上で金持ちだからといって、魂や永遠の価値が保証されるわけではない。ただ金持ちであるという事実があるだけだ。
必要であれば、私はこれを、あなたの以前の「虚無・永遠・安寧」のテーマと一緒に整理して、短い文章や図式として明確に表現することもできます。
作りますか?