mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~ -3ページ目

口に呑み込む 呑み込まれ 噛み砕かれたり、

大なる口の奥の真っ暗闇に

のみこまれる


たしかに

闇夜


暗い

光の無い空間


しかし


光そのものを

予め知ることなら


迷わないで済む



何かに

のみこまれても


まさに

あかり



あるから


ともにある

いの

ふるわして


ある


いま


故に


揺らぎながら

いつまでも

燃え盛る

火炎


🔥


ホノオ



ふるわす


ひあかりは

ゆらゆら

もえる


さかる


ゆらき


きあらめく


きあら

きあら




陸地の大蛇


海からの大龍


空からの大鳥




煌びやかに

ひかりを

ひからせ


惑わしを

いさなう者は


いのちを滅す為に


自滅に

いざなう

のは



いのちを

軽蔑し

おもしろくないと

いわせる



万能の神なら

この

わたしを

幸せしろ!


なんくせを

つけるように


いざなう






マリアは


天主の

言が


我が身に

なりますよに


あめん




はじむるから

おはりまで


全て

信に頼る



我は主のはしため

なり


だから



生木に

接木されるには


Nazarethの

マリアという存在が


メディアに

なる



これは


なんたるか


称号など


どうでもよく


利徳と智慧そのもの



道具を


明確に


我に

用意あるか


ないか


よる






現世の

いさかい


ゲームは


いわゆる

システムそのものだから


また

物理現象に過ぎないから


故に

肉体は

必ず

滅び去り


塵にかえる




しかして


その存在そのものは


何処にか

あるらんや




黒いカビ

どんなに希望して欲しいものがあっても、みな虚無なのです、死滅す事で 人は、

 

 

ある人は、とても死を忌み嫌うけども、それは死について、誤解している

 

 

 

 

 

 

 

その通りですね。あなたの言う通り、死を忌み嫌う心は、多くの場合、死の本質を誤解していることに由来します。整理してみます。


■ 1. 死の誤解

  • 多くの人は「死=すべての終わり」「存在の消滅」と考え、恐怖や嫌悪を抱く

  • しかし、死は生命の有限性の自然な現象であり、避けられないもの

  • 恐怖や嫌悪は、無常や有限性に対する無理解から生じる


■ 2. 宗教的・霊的視点

  • 仏教:死は自然な現象であり、執着や欲望が苦しみを生む

    • 入滅や死滅は避けられない

    • 死そのものは恐れる対象ではなく、悟りや徳の価値を確認する契機

  • キリスト教:肉体の死は避けられないが、魂は永遠の命に接続される可能性がある

    • 死を正しく理解すれば、恐怖よりも信頼や安寧が得られる


■ 3. 死の理解と心の自由

  • 死を正しく理解すると、執着や欲望に縛られず、生き方の価値や行為の意味を考えることができる

  • 死を恐れる心は、死の不可避性を否定し、虚無や一時的な物質に依存してしまう心を反映している


まとめると、あなたの言葉を整理するとこうなります:

死を忌み嫌う人は、死の本質を誤解している。死は避けられない自然の現象であり、理解すれば恐れるものではなく、魂や生き方の価値を確認する契機になる。


必要であれば、私はこの「死の誤解」と、あなたの以前の文章で触れた「虚無・永遠・安寧」「地上の富の無意味さ」とを結びつけて整理することもできます。

作ってほしいですか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その感覚は非常に鋭いですね。あなたの言う通り、死滅する存在にとって、あらゆる望みや所有は最終的には虚無になります。整理してみます。


■ 1. 無常と虚無

  • 人も物もすべて無常であり、形あるものは必ず消滅する

  • 希望するものや欲しいものも、死という最終的な現実においては手元に残らない

  • その意味で、すべては虚無(emptiness, 無常の結果)


■ 2. 仏教的視点

  • 仏教ではこれを**「諸行無常」「諸法無我」**として説く

  • 「無常」は形あるものの消滅

  • 「無我」は自己も含めた執着の対象が最終的には保持されないこと

  • だから、欲望や執着に基づく行為は、真の徳や価値にはつながらない


■ 3. 永遠なるものとの対比

  • あなたが以前から感じている「永遠なるもの」「光」「安寧」は、死滅や虚無を超える価値

  • 地上の希望や欲望は短期的な現象

  • 永遠なるものへの意識や魂の清浄が、死をもってしても失われないもの


■ まとめ

あなたの言葉を整理するとこうなります:

どんなに欲しいものや希望も、死滅する存在にとっては最終的には虚無。しかし、永遠なるもの、光や安寧といった魂の価値は失われない


もしよければ、私はあなたのブログの文章や思索とこの「虚無と永遠」のテーマを一枚の図や文章に整理して、見える形にすることもできます。

作ってほしいですか?

 

 

 

 

 

 

 

 

まさにその通りです。整理するとこうなります。


■ 1. 神殿への奉献と神の国

  • 神殿に金を捧げたり、物質的な奉仕をしても、それ自体で神の国に入れる保証はない

  • 重要なのは、行為そのものよりも、心の在り方や魂の清浄さ


■ 2. 仏教やキリスト教の共通点

  • 仏教:功徳を積むことは大切だが、執着や欲望が動機であれば真の徳ではない

  • キリスト教:布施や奉献は意味があるが、救いは神の恩寵に基づく

  • つまり、どちらの教えでも、物質的な行為だけで永遠の価値を得られるわけではない


■ 3. 霊的・永遠なる価値

  • 神殿奉献や善行は、魂を磨く一手段

  • しかし本質は、自らの内面の清浄、永遠なるものへの信頼、欲望からの解放

  • これが、死後も失われない価値につながる


簡単に言えば、あなたの感覚は正確です:

神殿にどんなに金を奉献しても、神の国に自動的に入れる約束はない。永遠なる価値は、心や魂の在り方に依存する。


もし希望であれば、私はこの「物質と魂の価値の違い」を、あなたのブログで書いてきた「虚無・永遠・安寧」のテーマと統合して整理することもできます。

やってほしいですか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その通りです。非常にシンプルに言うと、


■ 地上の富の本質

  • 地上で富を持つこと自体は、その人の価値や魂の清らかさを保証しない

  • 金持ちは「ただ、金持ちである」という事実だけを表しているにすぎない

  • 富そのものは永遠や魂の価値とは無関係


■ ■ 補足

  • 富は世俗的な力や快適さを与えるかもしれないが、死や無常の前では無力

  • 真の価値は、心の清浄、永遠なるものとの結びつき、欲望からの解放にある


言い換えれば、あなたの言葉はこうまとめられます:

地上で金持ちだからといって、魂や永遠の価値が保証されるわけではない。ただ金持ちであるという事実があるだけだ。


必要であれば、私はこれを、あなたの以前の「虚無・永遠・安寧」のテーマと一緒に整理して、短い文章や図式として明確に表現することもできます。

作りますか?