mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~ -24ページ目

そのまんま を受け止めるにはかなり力量が必要

自分の能力には、限界があることで、全能のあること知る事を思う事が可能である事

自分の能力には、限界があることで、全能のあること知る事を思う事が可能である事

 

 

その証明は

 

Nazarethのイエシュアが

2000年前に顕示した

あらわにして

あけ

しめし

ものもうす事

 

LOGOTHEO

VERVE

 

吐く事による

 

 

 

人とは

口がある

 

言を

吐き出す事

 

頭脳神経細胞システムのそれ

 

ORDERと

ORDERを理解し

創作する事で

何かを

求める事

 

TASTE

 

舌で

味わいを求めるが

 

一体

何を求めるのだろうか

 

 

もしもそれは

 

永遠の生命と共に悦ぶ事であるなら

 

奉献して

全てを

さあ

ける

 

供養とは

正に

 

実際は

自分に無数の無量の恩恵を

いただいていることだ

 

それは

生命の

体験として

あること

 

 

はくくみ

やしない

いつくしみ

ココロ

配ってくれている

 

燃える火の如くその温かい心とは

 

正に

慈愛そのもの

 

滋養そのもの

慈悲そのもの

 

 

苦痛を体験して

しつまる者に

その同じ

苦痛を

共に

体験してくれている事の

それ

 

 

 

それこそ

 

枯木に手足を

釘で

さしつけられて

吊るされているその姿であること

 

 

 

実存としての

重ね合わせの結果

 

共にいることの

それ

 

これは

一つの

ミステリアスな事だ

 

 

生命そのものは

沈黙のままにあること

 

観察したら

よく理解できる

 

 

 

そこには

いつくしみの終わりの無い事だ

 

 

存在した自己の

その事は

 

何も価値が無いとして

審判されても多くの人々に

廃棄されているとしても

しかし

 

その侵害

放置

その結果

 

 

そこに

いつも

 

共に在る事を

そのまま

忍耐の能力を発動して

いる

者こそ

優位なものだと云う事は

合理だ

 

論理からも

 

理屈にあっている

 

 

それこそ

Agape

 

AGATHEO

 

 

CHARITATHE

 

 

CARITE

 

 

 

 

 

カーリータースでも

カリタスでも

シャリテでも

 

 

 

CHARISMAでも

 

 

同じ事だ

 

 

 

どんな意図を保持しているものでも

存在せしめている者が

優位であって

 

かりにも

天使で最高の権威がるとしても

その天使の存在を

命令して

存在せしめた主人があるのは

普通であるから

 

 

 

その天使の最高位者が

もしも

主人の命令に反対して

その主人の言を否むならば

どうだろうか

 

 

自分から

完全な純粋な慈愛を拒否する事を

その天使は

自己の発意で実施し

それを

完全にゆるすのが

その者

 

天主

主人である事

 

自由とは

それ

選択する事を決意する事

そのまま

尊重する事だ

 

 

 

 

その後

その天使は

自らの発意で

天主

すなわち

慈愛そのものを

避ける

逃げる事だ

ということも

理屈にある

 

どこまでも

慈愛に充満している世界

であることは

 

かの天使には

つねに苦痛であること

 

 

 

それこそ

正に

終わりの無い地獄だと云う事だ

 

燃える炎で焼かれている事は

そうして

その炎とは

正に一つの慈愛の炎であるので

 

 

それを求めて止まないものもあるし

 

それをいなむ

 

拒否する存在もある

 

それは

 

人である者に

奉仕

自分から支援を提供したくはないと

拒否するもの

 

なぜか

人とは土から出来た汚いものだから

 

霊であることではないというその自惚れがあるそうだ

 

 

土に

霊は吹きこまれてあるのが

人だという定義であるとすると

 

霊はまさに美しいのだろうが

 

その美しさがあることで

人々から

むしろ

崇敬され

奉仕をうけて

奉りを

求めている

天使だそうだ

 

 

 

 

そこでは

主人から

人々に

奉仕しなさいと

命令されて

一人

一人は

自由を付与されて

そして

その天使の支援を

ここよろく

受け止めるかどうか

その選択も

自由判断

 

 

 

まかせられている

その方針

 

 

慈愛そのものを終わりなく

贈る事は

それは

その存在を保持し

そこに生命を贈り

共にあること

 

 

ゆえに

人は

自分から

その生命そのものを拒否しないことこそ

そのいのちの貴重を

あじわうこと

 

 

 

再確認する事の作業を

一つ一つ

積み重ねる事

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いのちの片鱗

 

 

これは

わたしの体である

顕示したその

Nazarethのイエシュアは

 

まさに

いつくしみそのものだということであるが

 

 

 

 

あらゆる人々に

自分を

わけて与えている施主

であること

 

 

 

 

 

 

ヨナの子のシモンが

高間で

奉仕する事をしなかったのは

なぜでしょうかね

 

 

 

その過ぎ越しのいわいの会席の主人であるのは

Nazarethのイエシュアであった

 

 

古の

出来事を記念して

思い出す

その再度確認するのは

 

主人

を派遣した

父そのものの

慈愛が

無限

無量であることを知る

覚えるためであるから

 

 

 

地上の王によって

所有品としてあった

イブリール

 

ヤコブの12人の子らの末裔のものたち

 

 

400年間の

くびき

から

自由を

えさせしめることを

実際に

 

エジプト王の気持ちを

さらに

意固地にさせることで

 

出て行け

エジプトから

おまえたちは

言わせるためであった

 

のですから

 

それは

天主の意図の通りに

事は運んだと

云う事だった

 

鷲の翼にのせて

 

あの葦の海を

わたることが

できた

 

 

荒野に参るが

 

 

そこでは40年間の

 

道行があるが

 

なぜか

海の道をいけば

威勢のよい

人々によって

かよわい

イブリールたちは

拿捕されて

また

強制的な使役を被ることになるから

 

同時に

自分たちの

内部での

諍いを

しつまることを

どうした

 

よいか

思案する事を

すすめていたことだった

 

 

 

あなたがたと共いいるではないか

 

あなたがたの王は

このわたしではないか

 

申しても

 

それに拒否してしまうのは

 

イブリールの人々であるから

 

 

 

なぜ

拒否したのか

 

 

Almightyである者を

王として

 

ゆえに

アナタは

わたしの砦と

 

いう

言は

意味を成果する事だ

 

 

身代わりに

償いをしてくれているのだから

受け止める事を

 

人には

善意の欠如があって

そのままあることで

いろいろな不都合

 

DEMERITを

積み重ねる事だ

 

同時に

償いとして

小さな行為をたった

一つでも行為した時には

 

meritは

一つ

つまれることになる

 

 

信頼とは

 

確かな最善の御品物を知っている事で

 

それに

たよること

 

TRUST

 

meritを

つみ

 

それを

奉納できることだ

 

 

 

マネーでは無い事

 

 

 

マネーは品を

交換するための

道具の一つだから

 

 

 

 

何を汚れている我が家に

迎える事が

最善の事

賢明なのか

 

 

詳しく

調べて

観る

臨む

 

そして

知る事

一つ

一つの

果実を

 

 

 

 

木を

 

 

種子を

 

 

 

 

 

南山堂

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人の能力の限界設定 なぜか、他人の体験している苦痛は知ると云う事は無い 自分しか知る事は無いから

人の能力の限界設定 なぜか、他人の体験している苦痛は知ると云う事は無い 自分しか知る事は無いから

 

なぜそうなのか

 

 

自らにある

侵害があって

傷がついて

痛みを感じる事

苦しむ

 

この

一連の過程は

 

誰かに共有できる事はまずない

 

いつも一人のその個人の唯一の体験であるが

 

 

痛み

 

苦とは

他の者と

その痛を

共有して

体験として

確実に知る事が無いという事の

悲しみでもある

 

 

嘆き

 

 

しかし

 

Almightyなら

それは

全能であることで

確実に知っているのである

 

どの人の痛みの経験も

みな

傷つけられた時のその苦しみも

いまある

痛みの

苦も

 

 

どうにもならない

その痛みの体験

 

あの瞬間

または

長期間にわたる

虐げの事実

 

誰も知らない事

 

理解しようとしないから

 

 

理解しようとしたら

知る事でもないが

 

なぜなら

個別の体験とは

それで

そのcaseと似ているなと

判断できる事を情報

自分にある

似た情報を

引き出して

どうかと

似せる努力をするが

やはり

全く

違う別の品物だと

理解に至る

 

同時に

 

苦痛

苦しみを

抱えているんだ

観念としては理解できる

 

どうして

何を提供する事がそもそも完全に善い事か

思案する

 

それは

ともにある者を

発見する事だ

 

実際に

そうして

一人

一人の

誰かの眼には見えない

その苦

痛みのあることの継続した体験

 

あらゆることの誓約

 

 

それこそ

あの

枯れ木に

生木を

釘で

押し付けた

 

その事と正に

同じ事だ

 

 

接ぎ木する事の

たとえ話

 

実際に

 

Almightyであるならば

ほんとに

その苦痛を

同じく

体験している

 

それは

疑う余地は無い

 

 

推理してみたまへ

 

 

 

 

 

 

推察し

 

合理

論理

としてそうである事が

実際に

立証できる

 

では

具体に体験しているのかどうかを

理解して

知る事が

第三者に出来るのか

どうか

 

 

さあ

 

物質

物理で

その外見があると

理解できるだろう

 

しかし

内的な幕に覆いかぶせられているのであるなら

それは

誰かに知ることに至る事は無い

 

もしも

言を

援用して

打ち明けをしても

 

誰か

それを

として

 

受け止める者があるだろうか

 

 

 

おおよそ

自分の体験していないことなど

論外だと

はじめから

排除してしまうだろう

 

ほんとに

共にあるとは

一体

どういう事なのか

 

こまかく

追及して

窮理することを

学ぶことは

賢明ではある

 

 

一枚の紙のようでも

それは何層も無数の数の羅列であるように

小さな素粒子のあつまりで

結びつきのあることであって

 

 

そこには

力の働きがあるのだが

 

 

人自身には

一つの塊があるとしか

認知できない

正に

愚鈍的な存在でもあると

自覚できるのだろうか

 

 

 

 

 

智恵とか

Sophia

 

 

人智では

はかることのできない

そのしらべ

 

 

どうして

傾聴

 

ACCEPTANCE

 

 

時節

 

時間

行為

思いと

コトバと行いの統合化した

ACT

 

 

その一つ

一つ

存在自体と

共にあることの

貴重と

重要は

どうだろうか

 

わたしと

いのち

RELATION

 

 

 

いのちがあるのが

あたりまえ

普通価値だとしてみると

 

そもそも

いのちそのものは

誰にも

クリエイトなど出来ないのに

 

 

 

 

死ぬのは当然だ

とか

どうせ

人は死ぬんだから

軽薄な言を

はく癖とは

 

なぜか

その者の

いきることの

苦難の

初期の生活の間に

みにしみているのだろうかと

疑問が生じる

 

 

 

いま

人間的な偉大な権力をその小さな手にしている者でも

 

はたして

自己の苦

その醸す要因の痛

 

 

受け止めた時の

おさない心を

保管してる

 

 

 

そうして

それに

自分の目をやらない

視線を

おくることを

拒否している

 

当然

うちあけることなどしないだろう

 

我慢して

 

見栄を張る事

 

 

いいかっこうを

世間には

立証し

立派としていたいから

 

人から

誹謗や中傷や

馬鹿にされることとか

 

期待されていたことを失う事とか

 

操作されていることの

証であるが

周囲の人々の判断から

その言から

 

なぜ

人は

そうして

操縦されてしまうことに

甘んじるのか

 

 

 

嫌なめには

遭遇していたくないから

 

 

であろうか

 

 

卑下されること

相手のその意見というのは

そんなに

信なのであろうか

 

意図をはっきりとしている

純粋なその善意が

内実にあるのだろうか

 

それとも

汚れた心という

その

おさな子のような心では無い

意図を

もって

他人を判断し

審判し

裁判し

ギルティとして

いるだろうか

 

死刑だ!

おまえのようなあしきものは

わたしの好む者では無いからと

 

なんとも

私的審判行為の犠牲と云う事でもある

 

中には

無数の数字

数値が同時に包括されているのだから

 

正に

EGG

 

そのEGG

種子

 

たねっこ

から

何を

生産したいのだろうか

 

 

になって

花が咲き

実のなるころは

どうなっているのだろう

 

 

あの

Nazarethのイエシュアの目の前にあった

無花果の木のように

翌日に

直ぐに

枯れ木となってしまうのかもしれない

 

なぜ

準備できていなかったのか

 

 

 

 

もともと

 

その

事を知らないから

 

 

実際に

体験していないから

 

 

 

 

いつも

ともにあるのだ

と云う事の

 

内的な

秘密の

花園ような

その景色と

共にある

 

 

 

 

 

 

 

 

豊かな

終わりの無い

仁慈の水の湧きだす

 

出でる水

 

 

固い硬い

堅い

その磐いわお

から

湧き出る

清い水

 

必要な栄養素のある水

 

 

 

血には

そもそも

水が入っているのですから

 

水にいろいろな成分

養分が

混在していること

 

 

溶液

 

 

 

その肉にもそうだ

 

 

それは

永遠の生命のその糧として

 

 

Nazarethのイエシュアは

 

うえ

乾いている者に

与えている

 

 

 

砂漠のようになった土地に

水と養分と

種子が

おガル

土壌を

予め

用意してくれると

そういう約束だ

 

 

 

人々の

個人の

それぞれが

 

天から地に降りて来た

正に

Almightyのその者が

 

やすまるところと

 

どんなに汚い場所であっても

毛枯れている

 

草枯れ

 

木かれ

気の涸れている

 

なんいも善いもの

良いものが

無いとしても

 

ゆえに

その場は

 

その一つの血を

もらうだけで

 

復活すること

 

 

 

 

まくらうこと

 

 

たった

一切れ

 

小さな

小さな

断片

 

雪結晶の

一つ

 

それくらいの

小さき命を

 

 

受け止める

という意図を

こころにさすときに

 

 

むかう

まむかい

にして

顔を

あおくこと

 

でしょう

 

両方の膝を折って

 

 

意を

宣言

する事だ

 

 

 

迎える

 

出向かう事は

 

 

洞窟のように

じめじめした

まっくややみのそこに

 

真白な太陽よりもしろく

ひあかりの

かかやける

その

 

 

 

むかえること

 

冬は

日のしつまること

 

 

春は

再起すること

 

 

四季とは

そうして

また

人生とは

そうあること

 

自分にとっての

四季

RHYTHMのそのリサイクルのPROCESS

 

帯のような示す事

記録

情報

 

一つ

一つ

 

行為した

あかし

スートラ

 

それは

智恵を

どう

うけとめたのか

 

嘆いた事のそれは一体

何であったか

 

そして

その受け止めることの

苦痛は

何であったのか

 

 

 

人には

その預かってる

能力

到る

限界は

あるものだから

です

 

 

どうして

そうして

いまあるのか