
自分の能力には、限界があることで、全能のあること知る事を思う事が可能である事
自分の能力には、限界があることで、全能のあること知る事を思う事が可能である事
その証明は
Nazarethのイエシュアが
2000年前に顕示した
あらわにして
あけ
しめし
ものもうす事
言
LOGOTHEO
VERVE
事
言
吐く事による
人とは
口がある
言を
吐き出す事
頭脳神経細胞システムのそれ
ORDERと
ORDERを理解し
創作する事で
何かを
求める事
TASTE
舌で
味わいを求めるが
一体
何を求めるのだろうか
もしもそれは
永遠の生命と共に悦ぶ事であるなら
喜
奉献して
全てを
さあ
さ
あ
ける
事
供養とは
正に
実際は
自分に無数の無量の恩恵を
いただいていることだ
それは
生命の
体験として
あること
はくくみ
やしない
いつくしみ
ココロ
を
配ってくれている
燃える火の如くその温かい心とは
正に
慈愛そのもの
滋養そのもの
慈悲そのもの
苦痛を体験して
しつまる者に
その同じ
苦痛を
共に
体験してくれている事の
それ
それこそ
枯木に手足を
釘で
さしつけられて
吊るされているその姿であること
実存としての
重ね合わせの結果
共にいることの
それ
これは
一つの
ミステリアスな事だ
生命そのものは
沈黙のままにあること
観察したら
よく理解できる
そこには
いつくしみの終わりの無い事だ
存在した自己の
その事は
何も価値が無いとして
審判されても多くの人々に
廃棄されているとしても
しかし
その侵害
放置
の
その結果
そこに
いつも
共に在る事を
そのまま
忍耐の能力を発動して
いる
者こそ
優位なものだと云う事は
合理だ
論理からも
理屈にあっている
それこそ
Agape
AGATHEO
CHARITATHE
CARITE
カーリータースでも
カリタスでも
シャリテでも
CHARISMAでも
同じ事だ
どんな意図を保持しているものでも
存在せしめている者が
優位であって
かりにも
天使で最高の権威がるとしても
その天使の存在を
命令して
存在せしめた主人があるのは
普通であるから
その天使の最高位者が
もしも
主人の命令に反対して
その主人の言を否むならば
どうだろうか
自分から
完全な純粋な慈愛を拒否する事を
その天使は
自己の発意で実施し
それを
完全にゆるすのが
その者
天主
主人である事
自由とは
それ
選択する事を決意する事
を
そのまま
尊重する事だ
その後
その天使は
自らの発意で
天主
すなわち
慈愛そのものを
避ける
逃げる事だ
ということも
理屈にある
どこまでも
慈愛に充満している世界
であることは
かの天使には
つねに苦痛であること
それこそ
正に
終わりの無い地獄だと云う事だ
燃える炎で焼かれている事は
そうして
その炎とは
正に一つの慈愛の炎であるので
それを求めて止まないものもあるし
それをいなむ
拒否する存在もある
それは
人である者に
奉仕
自分から支援を提供したくはないと
拒否するもの
なぜか
人とは土から出来た汚いものだから
霊であることではないというその自惚れがあるそうだ
土に
霊は吹きこまれてあるのが
人だという定義であるとすると
霊はまさに美しいのだろうが
その美しさがあることで
人々から
むしろ
崇敬され
奉仕をうけて
奉りを
求めている
天使だそうだ
そこでは
主人から
人々に
奉仕しなさいと
命令されて
一人
一人は
自由を付与されて
そして
その天使の支援を
ここよろく
受け止めるかどうか
その選択も
自由判断
まかせられている
その方針
慈愛そのものを終わりなく
贈る事は
それは
その存在を保持し
そこに生命を贈り
共にあること
ゆえに
人は
自分から
その生命そのものを拒否しないことこそ
そのいのちの貴重を
あじわうこと
再確認する事の作業を
一つ一つ
積み重ねる事
いのちの片鱗
これは
わたしの体である
と
顕示したその
Nazarethのイエシュアは
まさに
いつくしみそのものだということであるが
あらゆる人々に
自分を
わけて与えている施主
であること
ヨナの子のシモンが
高間で
奉仕する事をしなかったのは
なぜでしょうかね
その過ぎ越しのいわいの会席の主人であるのは
Nazarethのイエシュアであった
古の
出来事を記念して
思い出す
その再度確認するのは
主人
を派遣した
父そのものの
慈愛が
無限
無量であることを知る
覚えるためであるから
地上の王によって
所有品としてあった
イブリール
ヤコブの12人の子らの末裔のものたち
400年間の
くびき
から
自由を
えさせしめることを
実際に
エジプト王の気持ちを
さらに
意固地にさせることで
出て行け
エジプトから
おまえたちは
と
言わせるためであった
のですから
それは
天主の意図の通りに
事は運んだと
云う事だった
鷲の翼にのせて
あの葦の海を
わたることが
できた
荒野に参るが
そこでは40年間の
道行があるが
なぜか
海の道をいけば
威勢のよい
人々によって
かよわい
イブリールたちは
拿捕されて
また
強制的な使役を被ることになるから
同時に
自分たちの
内部での
諍いを
しつまることを
どうした
よいか
思案する事を
すすめていたことだった
あなたがたと共いいるではないか
あなたがたの王は
このわたしではないか
と
申しても
それに拒否してしまうのは
イブリールの人々であるから
なぜ
拒否したのか
Almightyである者を
王として
ゆえに
アナタは
わたしの砦と
いう
言は
意味を成果する事だ
身代わりに
償いをしてくれているのだから
受け止める事を
人には
善意の欠如があって
そのままあることで
いろいろな不都合
DEMERITを
積み重ねる事だ
同時に
償いとして
小さな行為をたった
一つでも行為した時には
meritは
一つ
つまれることになる
信頼とは
確かな最善の御品物を知っている事で
それに
たよること
TRUST
meritを
つみ
それを
奉納できることだ
マネーでは無い事
マネーは品を
交換するための
道具の一つだから
何を汚れている我が家に
迎える事が
最善の事
賢明なのか
詳しく
調べて
観る
臨む
そして
知る事
一つ
一つの
果実を
木を
種子を
南山堂
人の能力の限界設定 なぜか、他人の体験している苦痛は知ると云う事は無い 自分しか知る事は無いから
人の能力の限界設定 なぜか、他人の体験している苦痛は知ると云う事は無い 自分しか知る事は無いから
なぜそうなのか
自らにある
侵害があって
傷がついて
痛みを感じる事
苦しむ
この
一連の過程は
誰かに共有できる事はまずない
いつも一人のその個人の唯一の体験であるが
痛み
苦
痛
苦とは
他の者と
その痛を
共有して
体験として
確実に知る事が無いという事の
悲しみでもある
嘆き
しかし
Almightyなら
それは
全能であることで
確実に知っているのである
どの人の痛みの経験も
みな
傷つけられた時のその苦しみも
いまある
痛みの
苦も
どうにもならない
その痛みの体験
あの瞬間
または
長期間にわたる
虐げの事実
誰も知らない事
理解しようとしないから
理解しようとしたら
知る事でもないが
なぜなら
個別の体験とは
それで
そのcaseと似ているなと
判断できる事を情報
自分にある
似た情報を
引き出して
どうかと
似せる努力をするが
やはり
全く
違う別の品物だと
理解に至る
同時に
苦痛
苦しみを
抱えているんだ
と
観念としては理解できる
どうして
何を提供する事がそもそも完全に善い事か
と
思案する
それは
ともにある者を
発見する事だ
実際に
そうして
一人
一人の
誰かの眼には見えない
その苦
痛みのあることの継続した体験
あらゆることの誓約
それこそ
あの
枯れ木に
生木を
釘で
押し付けた
その事と正に
同じ事だ
接ぎ木する事の
たとえ話
実際に
Almightyであるならば
ほんとに
その苦痛を
同じく
体験している
それは
疑う余地は無い
推理してみたまへ
推察し
合理
論理
としてそうである事が
実際に
立証できる
では
具体に体験しているのかどうかを
理解して
知る事が
第三者に出来るのか
どうか
さあ
物質
物理で
その外見があると
理解できるだろう
しかし
内的な幕に覆いかぶせられているのであるなら
それは
誰かに知ることに至る事は無い
もしも
言を
援用して
打ち明けをしても
誰か
それを
信
として
受け止める者があるだろうか
おおよそ
自分の体験していないことなど
論外だと
はじめから
排除してしまうだろう
ほんとに
共にあるとは
一体
どういう事なのか
と
こまかく
追及して
窮理することを
学ぶことは
賢明ではある
一枚の紙のようでも
それは何層も無数の数の羅列であるように
小さな素粒子のあつまりで
結びつきのあることであって
そこには
力の働きがあるのだが
人自身には
一つの塊があるとしか
認知できない
正に
愚鈍的な存在でもあると
自覚できるのだろうか
智恵とか
Sophia
人智では
はかることのできない
そのしらべ
どうして
傾聴
ACCEPTANCE
時節
時間
と
行為
と
思いと
コトバと行いの統合化した
ACT
その一つ
一つ
存在自体と
共にあることの
貴重と
重要は
どうだろうか
わたしと
いのち
の
RELATION
いのちがあるのが
あたりまえ
普通価値だとしてみると
そもそも
いのちそのものは
誰にも
クリエイトなど出来ないのに
死ぬのは当然だ
とか
どうせ
人は死ぬんだから
と
軽薄な言を
はく癖とは
なぜか
その者の
いきることの
苦難の
初期の生活の間に
みにしみているのだろうかと
疑問が生じる
いま
人間的な偉大な権力をその小さな手にしている者でも
はたして
自己の苦
と
その醸す要因の痛
を
受け止めた時の
おさない心を
保管してる
そうして
それに
は
自分の目をやらない
視線を
おくることを
拒否している
当然
うちあけることなどしないだろう
我慢して
見栄を張る事
いいかっこうを
世間には
立証し
立派としていたいから
人から
誹謗や中傷や
馬鹿にされることとか
期待されていたことを失う事とか
操作されていることの
証であるが
周囲の人々の判断から
その言から
なぜ
人は
そうして
操縦されてしまうことに
甘んじるのか
嫌なめには
遭遇していたくないから
であろうか
卑下されること
相手のその意見というのは
そんなに
信なのであろうか
意図をはっきりとしている
純粋なその善意が
内実にあるのだろうか
それとも
汚れた心という
その
おさな子のような心では無い
意図を
もって
他人を判断し
審判し
裁判し
ギルティとして
いるだろうか
死刑だ!
おまえのようなあしきものは
わたしの好む者では無いからと
なんとも
私的審判行為の犠牲と云う事でもある
①
の
中には
無数の数字
数値が同時に包括されているのだから
正に
EGG
そのEGG
種子
たねっこ
から
何を
生産したいのだろうか
木
になって
花が咲き
実のなるころは
どうなっているのだろう
あの
Nazarethのイエシュアの目の前にあった
無花果の木のように
翌日に
直ぐに
枯れ木となってしまうのかもしれない
なぜ
準備できていなかったのか
もともと
その
事を知らないから
実際に
体験していないから
いつも
ともにあるのだ
と云う事の
内的な
秘密の
花園ような
その景色と
共にある
豊かな
終わりの無い
仁慈の水の湧きだす
泉
出でる水
固い硬い
堅い
その磐いわお
から
湧き出る
清い水
必要な栄養素のある水
血には
そもそも
水が入っているのですから
水にいろいろな成分
養分が
混在していること
溶液
その肉にもそうだ
それは
永遠の生命のその糧として
Nazarethのイエシュアは
うえ
乾いている者に
与えている
砂漠のようになった土地に
水と養分と
種子が
おガル
土壌を
予め
用意してくれると
そういう約束だ
人々の
個人の
それぞれが
天から地に降りて来た
正に
Almightyのその者が
やすまるところと
どんなに汚い場所であっても
毛枯れている
草枯れ
木かれ
気の涸れている
なんいも善いもの
良いものが
無いとしても
ゆえに
その場は
その一つの血を
もらうだけで
復活すること
肉
を
まくらうこと
たった
一切れ
小さな
小さな
断片
雪結晶の
一つ
それくらいの
小さき命を
受け止める
という意図を
こころにさすときに
むかう
まむかい
にして
顔を
あおくこと
でしょう
両方の膝を折って
意を
宣言
する事だ
迎える
出向かう事は
洞窟のように
じめじめした
まっくややみのそこに
真白な太陽よりもしろく
ひあかりの
かかやける
その
き
み
を
むかえること
冬は
日のしつまること
春は
再起すること
四季とは
そうして
また
人生とは
そうあること
自分にとっての
四季
RHYTHMのそのリサイクルのPROCESS
帯のような示す事
記録
情報
一つ
一つ
行為した
あかし
スートラ
それは
智恵を
どう
うけとめたのか
嘆いた事のそれは一体
何であったか
そして
その受け止めることの
苦痛は
何であったのか
人には
その預かってる
能力
の
到る
限界は
あるものだから
です
どうして
そうして
いまあるのか