亡くなられた長嶋茂雄さんに「生涯で最も印象に残っている日はいつですか」と尋ねたことがあります。答えは「昭和34年(1959年)6月25日」。
その前夜。翌日のプロ野球史上初の天覧試合を前に、長嶋さんは使うバットが決まらず、イライラしていました。「陛下の前でいいホームランを打ちたい、いいヒットを打ちたい」と思うのだが、20本ほどあるバットのどれにしようかと、指でバットの芯を指で叩いて音を聞き、握ってみても1本が決まらなかったからです。
天皇皇后両陛下に対する思いは「昭和天皇は日本国の象徴ということだけではなく、まさにカリスマでした。皇后様は『日本の母』と慕われ、あの笑顔が国民に親しまわれており、両陛下は私にとって夢のような存在でした」。
20本の中から5本を選んで枕元に置いて寝ました。朝起きて、真ん中にあった1本の米国製のバット「ルイスビル・スラッガー」を選び、予備の1本とともに携えて後楽園球場に向かいました。この2本は今だに自宅の地下室に飾ってあるそうです。
午後7時プレーボール。先発は巨人が藤田元司、阪神が小山正明の両エース。五回、ミスターの本塁打などで巨人が逆転したが、六回に阪神が再逆転。七回に新人の王貞治が同点2ランを放ち、記念すべき「ONアベック本塁打」第1号が生まれました。
こうして、4ー4のまま九回裏。マウンドには小山からリリーフした新人の村山実が立っていました。前回対戦した時は投ゴロと三振。先頭打者として打席に立った時、「打ちたい。必ず打てる」と、いつものように自己暗示をかけました。
カウント2ー2からの5球目は、内角高めに来たボール気味の快速球。振り抜くと、打球は左翼ポール際の最上段に突き刺ささりました。プロ入り初のサヨナラ本塁打が、世紀の一戦で出たわけです。
打たれた村山の心境について、村山が語った言葉がある。「長嶋さんと戦う時は、どっちがどれだけ炎となっているかの勝負なんです。相手の方が、熱いと感じた時は私がどんなにいい球を投げても打たれます。逆に私が炎となっている時は、いくら長嶋さんが、いいスイングをしても私が勝ちます。しかし、天覧試合の時は、いつもと違っていました。あの勝負の瞬間、長嶋さんの目はとても静かだったのです。一瞬、ふっと涼やかなとても穏やかな目になった。長嶋さんのファンタジーとでも言いましょうか。この静寂に投手は魅入られ、我を失うのです。あの時の私もそうでした」。
天覧試合が終わり、「10ゲームくらいは疲労困憊となった。あまりにゲームの内容が濃密過ぎた。ゲームそのものがスリルとサスペンスにあふれて、興奮と感動にしびれてしまった。自分の野球人生はマイナーからメジャーに評価されたし、同時にプロ野球全体もマイナーだったものから、一般国民から評価されるものなった」。
そういう大きな試合で、「生涯で最も印象に残る日」と答えた理由でもありましたーー。
その前夜。翌日のプロ野球史上初の天覧試合を前に、長嶋さんは使うバットが決まらず、イライラしていました。「陛下の前でいいホームランを打ちたい、いいヒットを打ちたい」と思うのだが、20本ほどあるバットのどれにしようかと、指でバットの芯を指で叩いて音を聞き、握ってみても1本が決まらなかったからです。
天皇皇后両陛下に対する思いは「昭和天皇は日本国の象徴ということだけではなく、まさにカリスマでした。皇后様は『日本の母』と慕われ、あの笑顔が国民に親しまわれており、両陛下は私にとって夢のような存在でした」。
20本の中から5本を選んで枕元に置いて寝ました。朝起きて、真ん中にあった1本の米国製のバット「ルイスビル・スラッガー」を選び、予備の1本とともに携えて後楽園球場に向かいました。この2本は今だに自宅の地下室に飾ってあるそうです。
午後7時プレーボール。先発は巨人が藤田元司、阪神が小山正明の両エース。五回、ミスターの本塁打などで巨人が逆転したが、六回に阪神が再逆転。七回に新人の王貞治が同点2ランを放ち、記念すべき「ONアベック本塁打」第1号が生まれました。
こうして、4ー4のまま九回裏。マウンドには小山からリリーフした新人の村山実が立っていました。前回対戦した時は投ゴロと三振。先頭打者として打席に立った時、「打ちたい。必ず打てる」と、いつものように自己暗示をかけました。
カウント2ー2からの5球目は、内角高めに来たボール気味の快速球。振り抜くと、打球は左翼ポール際の最上段に突き刺ささりました。プロ入り初のサヨナラ本塁打が、世紀の一戦で出たわけです。
打たれた村山の心境について、村山が語った言葉がある。「長嶋さんと戦う時は、どっちがどれだけ炎となっているかの勝負なんです。相手の方が、熱いと感じた時は私がどんなにいい球を投げても打たれます。逆に私が炎となっている時は、いくら長嶋さんが、いいスイングをしても私が勝ちます。しかし、天覧試合の時は、いつもと違っていました。あの勝負の瞬間、長嶋さんの目はとても静かだったのです。一瞬、ふっと涼やかなとても穏やかな目になった。長嶋さんのファンタジーとでも言いましょうか。この静寂に投手は魅入られ、我を失うのです。あの時の私もそうでした」。
天覧試合が終わり、「10ゲームくらいは疲労困憊となった。あまりにゲームの内容が濃密過ぎた。ゲームそのものがスリルとサスペンスにあふれて、興奮と感動にしびれてしまった。自分の野球人生はマイナーからメジャーに評価されたし、同時にプロ野球全体もマイナーだったものから、一般国民から評価されるものなった」。
そういう大きな試合で、「生涯で最も印象に残る日」と答えた理由でもありましたーー。
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1984年の王監督の時代から、藤田、長嶋、原監督まで、20年以上巨人を担当した某新聞社運動部元記者。